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■ シンプルに、よりシンプルに / 第二列王記5:1~14 (2012-10-07)

クリスチャンとして信仰生活に取り組むとき、最も邪魔な存在は何かと気がついた。 それは自分のプライドであり、今日までのキャリヤと自信であることを知ったとき、神さまが働いてくださる目的を見た、と思った。 そのとき、自分ではそれが容易いこととは到底思わなかった。 ある意味、それ自身が私の中心的支柱の様に思えたからである。 でも、ここを主に変えてもらわねば、本当に自分が変えられることにはならないと思った。 同時に、それそのものこそ、キリストに委ねなければというより、キリストに何とかして剥ぎ取って貰わねばならないことであると思う。 生涯、それと向かい合って生きて行くのだろうか? 神の再創造は果たしてどこまで及んでくださるのだろうか?

アラムという国に勇敢で機知と戦略に長けた将軍がいた。 ナアマンというその人には、イスラエルから連れて来た若い娘がおり、ナアマンの妻に仕えていた。 この将軍は致命的な病いを背負っていた。 ハンセン病ではあったが、まだ特にひどい状態に至ってはなかった。

ある日、あの若い娘がナアマンの妻に進言した。 「私の国に力ある預言者がおります。ご主人の病気もきっと癒されるでしょう。」 ナアマンがそのことをアラムの王に伝えると、王は黄金と沢山の土産をナアマンに見せ、これらを持ってイスラエルに住む力ある預言者の元に行き、病を癒してもらうように、と言った。 実にナアマンは王から絶大な信任を得ていたのである。

ナアマンがイスラエルに下って来て預言者の言葉を聞いたとき、彼は腹の底から煮えくり返って怒った。 預言者エリシャは彼にこう言ったのである。 「ヨルダン川で七度身を浸し、清められなさい。そうすれば貴方の体は元通りになる。」 ナアマンはエリシャの言葉が終るか終らないうちに踵を返し、自分の国へ帰ろうとしたが、しもべの叫び声が背中を打った。 「ご主人様、もし預言者が難しい要望を求めたら、あなたは従ったのでしょうか。 しかし、彼は七度身を浸して、きれいになりなさい、と言っただけではないですか。」

ナアマンは踏みとどまって思い直し、騙された積りでヨルダンの水に身を七度浸して洗い清めた。 すると彼の体は赤子の様にきよくなった。 預言者の言葉をブロックしナアマンの心のた本質とは何か? キャリヤ、実績、誉、誇り、そしてプライドである。 それそのものに直接罪を認めるものではないが、神の言葉を遮るに充分な資質が潜んでいることを知っていただきたい。 それは「自分」という、「神よりも強い見えない敵」である。 その敵を従えずして、私達に本当の勝利は来ないと思う。 それこそが、誠の敵である。 私達はそれを敵とみなさず、それどころか強力な味方と勘違いしているかも知れないのだ。

イエスさまが仰った「自分の十字架を負うて、わたしに従って来なさい。」とは、文字通り「その自分を十字架につけて」であり、それをしてこそ、あなたはわたしについて来られるだろう、という意味ではないだろうか? どうしても自分に向き合わねばならない場面が必ずいつか来る。 それが自分という我を十字架に掛ける決断ではないだろうか? 確かに主はいつまでも待ってくださるだろう。 しかし、いつかはその日が来るのだ。 主がそれを待っておられることを悟った人は幸せ者、と私は思う。 しかし、それだけでは勝利者ではない。 そこで勝利を得た者だけが、本等の幸せ者と思う。 それは「神の力だけを信じた」結果となるのだから。

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