■ この内なる思いを知るは私のみ? / マタイ11:2~11 (2012-12-09)
バプテスマのヨハネ、新約時代のエリヤと称される人だった。 幼い時から一切俗世間で暮らすことなく、荒野に身を引き、イナゴを食べ、野蜜を食べ、ナジル人として生きた。 女性、金銀、権力というリーダーの大敵には全く興味も縁もなく、ひたすらメシヤの通られる道備えをした人だった。 そして相手が王であろうと権力者であろうと、罪に関しては怯むことなく言葉の刃で指摘した。 時の王、ヘロデが実弟の妻を自分の妻に迎えたとき、ヨハネはすかさずそれに言及し、王の怒りを買い牢にぶち込まれた。 そんな或る日、ヨハネは獄の中からイエスの下に弟子を遣わし言を託した。 『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。』 ヨハネは風の便りに人々から伝わってくるイエスのことを聞き、いささか自分の考えがずれた様に感じたのかも知れない。
イエスはヨハネの弟子に言われた。 『あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。』 今、イエスのおられる所で起こっている出来事、それらをつぶさに見て聞いたことを、ヨハネに伝える様言われた。 そして重ねて言われた。 『誰でも、わたしに躓かない者は幸いです。』 それがヨハネを思いやるイエスの言葉だった。 「ヨハネよ、あなたがして来たこと、言ってきたことは間違ってはいなかったのだ。 天の父は私をメシヤとして遣わされ、そしてあなたは立派に私の通る道を敷いたのだ」と。
私達は様々なことに躓く。 企業で働く人々は会社に、上司に、仲間に、そして社長に躓く。 躓きを与えない集団などさらさら無いとさえ言える。 クリスチャンだって同様である。 私なども随分躓かされたし、そして躓かせてしまった、と思う。 原因をすべて他者のせいにして終れるなら、自分は何一つ責任を負っていない。 その場合、「あ~、躓かされた」で済むだろう。 また自らに、その非を見るなら、やはり責任を負うしかない。 これらは集団生活につきものである。 だが人々は集団生活においてこそ磨かれるのだ。
教会とは、そもそも正しく、モラルがあり、清く、思いやりのある人たちの居る場所、という錯覚?を外界に与えて来た。 しかし、素晴らしい人達と思うときがあり、なにかガッカリさせられるときがあり、或るときは仮面をかぶった人の集団にさえ思えるときがる。 だが確かに世と比べれば、間違いなく良い人たちの集団であると思う。 それは教会がクリスチャンの集まりであるという考えが先立っているからこそ、正しい人達、品行方正、思いやりのある人達というレッテルを、私達が貼ってしまっているのだと思う。
昔、私がクリスチャンになって間もない時期、日曜毎に毎週辛い思いで帰って来た。 それが数年続いたとき、さすがに私は参ってイエスに注文をつけたものだった。 「イエスさま、あなたは何でこんな面倒な教会を建てたのですか?あなたの言われた『私の教会』というイメージから実体は程遠いのですが・・・・」 暫くした頃か、主は答えてくれた。 『わたしは、そこであなたを煉る。』 箴言27:17 『鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。』 私は納得した。 そして今つくずく思う。 「ああ、あの時は恵みだったんだ、祝福だったんだ。あのときあったから、今があるんだ。」と。 神の摂理ってこういうことなんだ、と悟らされた。
信徒に躓き、牧師に躓き、聖書にだって躓く。 なぜですか?とも言いたい。 もしかしてこの私に問題があったのかも知れない。 もしくは他の誰かに非があったのかも知れない。 でも、自分も含めて、人間なんてそもそも、そんな生き物でしかないだろう。
偉そうにしている様に見えたり、上品ぶっている様に見えたり、さも聖人ぶっているかに見えるときだってある。 そんなとき、「ならどうして教会に行くんだよ」と言いたい時だってある。 もし聖人君子の群がる集団だとしたら、そんな教会にイエスさまが本当に居るんかなぁ・・・・なんて天邪鬼に考えてしまう。 きっと私は妬み根性なのだろう。
いいや、だからこそ、教会に行くんではないですか、と答えが何所からか聞こえて来そうだ。 ついついそう見えるのは、あなたの心のメガネの度が狂っているからでは?・・・う~ん、かも知れない。
但し、である。 確かに神の赦しを受けた罪びとの群ではあるがだ。 マタイ 11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。 『あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。』 私達は毎週、性懲りも無く教会に行き、礼拝に出ている。 何のためか?を忘れてはならない。 暇つぶしではない。 信条でも繕いでもない。
それは更にイエスを知り、イエスに近付きたい。 イエスの言葉を聞き、イエスに生きたい。 イエスに触れ、イエスの衣に触れたい。 どうしようもないこの自分を赦してくれた主に愛をもっともっと知りたいのである。 つまり、イエスに期待している、信頼しているからだ。 違いますか?
もし、あなたがクリスチャンであるなら、目指すべきものがある筈だ。 それがどんな形であろうと、どんなレベルであろうと、どんな働きであろうと、皆、「イエスの弟子」になることだ。