■ メシヤ御降誕!事後 / マタイ2:1~23 (2012-12-30)

カレンダーにおける2012年のクリスマスは過ぎて行った。 しかし、クリスチャンとしては「ここからが新たな始まり」だと思う。 お生まれになった主イエスと今後再び、どう向かい合って生きて行くかが問われるべきである。 私達のためにお生まれになった方、というよりも「私のために」という思いが希薄であったり不在であったら、何かにつけて焦点はかすむと思う。 信仰生活の中で、最も明確に求めるべきは、「私と主」という1対1という関係が常に先行する。 その部分がかすんでいるとしたら、信仰の芯はぶれっぱなしになる。 仮にメインの『1対1』が無いとしたら、目線はいつも空中をさ迷うように、絶えず他の人を見て暮らすようになる。 結果、自分と他者の関係の中味だけで喜んだり、落ち込んだりする。 「主と私」をしっかりと自分の中に据えておくことは何よりも大切である。

創造主である神さまは、愛する御子をこの罪の世に下さった。 あの晩、メシヤ御降誕の知らせを聞いたエルサレムの誰もが恐れ惑った、と聖書は言う。 心から喜んで御子を拝したのは、東方の博士達と羊飼いの数人だった。

天の父が、まったく無力、無抵抗な赤子を危険極まりない環境に敢えて送られた理由は、マリヤとヨセフの若い夫婦への信頼だけだったと思う。 二人には名も力も財も無く、無いものだらけの二人であった。 二人が選ばれた理由は、神への全き信頼と委ねにおいて、いわゆる一般人と比べようも無いほど、抜きん出ていた。

ヨセフという人は4人の男の子をマリヤに残し、若い日に亡くなったと思われる。 そのためか、存在感に関してマリヤよりもはるかに薄い。 しかし、ヨセフの信仰を振り返ると、並みではなかった。 「いいなずけ」のマリヤの懐妊を知って迷ったとき、夢の中で神の声を聞き、信仰をもってマリヤを妻に向かえた。 イエスが生まれたとき、ヘロデの魔手から逃れ三人でエジプトへ下ったのは、夢で主の導きを聞いたからだ。 そしてヘロデが死んだことを聞きユダヤに戻ったが、アケラオという新しい王が着くと、夢で主の声を聞き、それに従ってガリラヤのナザレ村に身を退いた。 それらはすべて神を信じ、イエスを守るためであった。

現代では考えられないヨセフの行動である。 すべて夢の中で聞いた言葉だった。 それほど高い信仰の持ち主がヨセフだった。 しかし、間違いなく気違い扱いされて当然である。 遠いエジプトくんだりまで出掛ける道には生まれたばかりの赤子が伴われ、再びユダヤに戻り、そしてナザレまでも上った。 砂漠と荒野の親子旅、寒さと危険が取り巻く長旅であったが、ひたすら感情を抑え粛々と神のみ声に従った。 それらはすべて、初めて聞いた主のみ声を自分の魂と霊で聴いたからであろうか。

「ダビデの子ヨセフ、恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。 その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。 この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」マタイ1章20節

覚えよう、メシヤの父なる主は寝ている私達の脳裏と心にさえ語り給う方であることを。

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