■ 水汲む者になりたい / ヨハネの福音書2:1~11 (2014-05-18)

ガリラヤもカナという村で結婚式があり、イエスとその母、イエスの弟子達も招かれていた。 宴もたけなわとなった頃、葡萄酒がなくなった。 マリヤはイエスに言った。「葡萄酒がありません。」 マリヤはありのままを伝えたのであろうが、イエスはこう言われた。 「婦人よ(女の方)、あなたとわたしに何の関係があろうか。わたしの時はまだ来ていない。」 すると母は召使に言った。 「あの方の言うことを何でも聞いてあげてください。」 実に息子が息子なら母も母である。 両者とも「背負った事情を変に下す」ことなく、互いが見事に言い放っている。 お互いの宿命をそのまま受け入れている。 マリヤはすべてを心に納めて生きて来た(ルカ2:19節)。 たまには我々も「神に愛された宿命に対し、気取らず曲げず、すっきりと生きたい」。

イエスはしもべ達に向かって言われた。 「水瓶の縁まで水をいっぱいに満たしなさい。」 しもべ達は言われるがままに、六つの大きな水瓶に水を汲み瓶の縁まで満たした。 水道にホースをつないで蛇口を捻る現代であったにしても、「先生、何の為に、これ程の水が必要なのですか?」位は、我々も聞きたいものであろう。 召使達は桶を深い井戸に落としては、汗を掻きながら綱で引っ張りあげる作業を幾度も幾度も繰り返した。

満たされた水瓶を見てイエスは言われた。 「さあ、今汲め。それから宴会の世話役の所に持って行きなさい。」 しもべ達は瓶から組んだ水をそのまま世話役のところに持って行った。 宴会の世話役はその水を飲んでから花婿に言った。 「あなたは、よくぞまあ今の今まで、これ程上等な葡萄酒をとって置いたものだ。普通なら安物の葡萄酒を出すものなのに。」 彼はその水が何処から来たか分からなかったが、水を汲んだ者たちは知っていた、と聖書は語る。

この単純な状況が流れる中で、実に多くの真理が潜んでいる。 先ず、マリヤがしもべ達に言ったこと。 「あの方の言われることを何でもしてあげてください。」 それは聖書全体が私達に訴えている言葉である。 それをイエスの母という立場でありつつ、彼女は預言していた。 彼女の言葉をそういう風に聞いたクリスチャン達も少なく無いと思う。 各言う私もそう聞いたからだ。

次は理由も分からず水瓶に井戸水を満たした人々である。 神さまが私達に語られることばは多くの場合、意味不明でもある。 人間は何よりも「理由」を求める生き物だ。 理由の無いこと、つながらないこと、無駄骨など嫌うのが人間だ。 もし、行動に意味が無ければ我々は動かない。 気持ちがいいから。楽しいから。美しくなれるから。格好いいから。満たされるから。金になるから。誰かのためだから・・・等々。

それでも主は時として、私達にとって意味不明なことを仰る。 しかし、だからこそ、その通りにすること自体が尊いのではないだろうか。 納得出来なくとも、言われたままを為すところで、私達は神の栄光を拝する。 汗を流した少数のしもべ達だけが、その上等の葡萄酒が何処から来たかのを知っていた。 神の栄光は主の言われたままに行動する、そのところにおいて体験するのである。

「我為すこと、汝今知らず、やがて後知るべし」である。(ヨハネ13:7)

主のお傍にあって、行動する者になりたい。 それには日々、主のことばを聴く者でなければならない。 世の繁雑に流されているばかりでは、水を汲むことなど実に無駄そのものである。 「ご自分で汲まれてはいかがですか?」とでも言ってしまいそうだ。 これでは神さまの栄光など拝せない。

主は人々を通して栄光を現す方である。 栄光、栄光、と口ばしっているよりも、主が今日、私に何をお語りになるのかを聴くことが大切である。 だからこそ、水汲む者となりたい。 葡萄酒を飲むばかりでは、いつだって主の栄光に預かることなど出来ない。

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