■ 信仰は神からのもの / ヨブ記2:7~3:1 (2010-01-24)

ふと妙なつながり?感じた。 「皆さんは刑事コロンボのドラマがお好きであろうか。懐かしい番組であったが、今も何度目かの再放送がされている。 あのストーリーとコロンボ刑事が好きだった。 風采の上がらない中年刑事コロンボだが、こと事件に対しては、見た目と大違いの鋭い目と嗅覚で真犯人を追い詰めた。彼の内外のギャップが痛快であった。

ヨブ記は刑事・コロンボのストーリーである。 コロンボのストーリーは、初めに事件と犯人を私達に教えており、コロンボ刑事がいかにして犯人を突き止めるか、という流れである。 ヨブ記も初めに原因を教えている。サタンが神に訴えることに始まり、それはヨブの人生に大変な災いとなって押し寄せる。 ヨブと三人の友人は必死に災難の意味を解き明かすべく、議論沸騰するもコロンボ映画と違って解決は見えて来なかった。ここが違った。 しかし、事件の張本人?である神がヨブに現れてくださったので、最後はめでたしめでたしとなる。

私はクリスチャンになって初めて、「真の勇気」が何であるかを知った。 勇気とは大胆、意気、死をも恐れない心、当たって砕ける気力、物事を恐れない強い心、などと、昔は考えていた。 しかし、信仰に入って悟ったことは勇気とは「神に聞き従う心」と思った。 自分の思いを通す気力があるなら、人はたとい命でも捨てる覚悟も出来る。 しかし、自分の思いを殺し、神に従うことは尋常の生き方では出来ない。 神のために自分を捨てること、それこそ真の勇気が伴う。 信仰とは、誠の勇気を引き出すものである。

ヨブを慰めるために見舞いに来た三人の友は、ヨブの余りにひどい容姿を見て声を失った。 7日7夜、彼らは互いに向かい合ったまま、会話が出来なかったのである。 ヨブの体は頭のてっぺんから足の先まで吹き出物に冒され、破れた皮膚の間からウジが湧き、ヨブは茶碗の欠片でそれを掻いていたとある。 東の国で最も裕福で、数万とも言われる家畜を飼い、7人の息子と3人の娘に囲まれ暮らしていた家長は、今や子供も財産も失い、この世の地獄の様な絵図の中に身を横たえていたのである。

実際、ヨブは神を見失い掛けていた。 神の沈黙は続き、ヨブの信仰にとどめを刺すかの様な時の流れであった。 今まで堪えていた彼の魂は遂に大声を上げて、普通の人間の一人として目覚めさせた。 ここで彼は生まれて初めて、自分の誕生を呪った。 長年掛けて築き上げたヨブの信仰と勇気の城壁は音を立てて崩れかけていた。

ヨブの災難は神のテストによるものであった。 決してヨブの罪のせいではない。 しかし、義人ヨブであっても神の前には一人の罪びとでしかないことを聖書は語る。

人間には耐えられることに限界がある。 ヨブはその限界の崖っぷちに立っていた。 そしてヨブは神に真向かっていた。 今、ヨブ神を畏れること以上に、この大きな試練の意味を知りたいと思う「一心」であったろう。 だからこそ、彼は神と自分自身に向かい合うステージの幕を自ら切って落とした。

私は思った。ヨブには聞こえなかったが、神はその御耳をそばだてて聴いておられた、のではないかと。 それは私達の人生でも同様である筈だ。 私達が「何故、神は沈黙されているのだろう」と思うときも、神はじっと私達の祈りと叫びを聞いてくださっている。 だから肉の耳で聞こうとしないで、信じる心の耳で聞こうとすれば、神は必ず聴いて応えてくださる。 『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』 イザヤ書41:10

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