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■ 蜘蛛の糸、その原点 / ルカの福音書16:19~31 (2009-07-12)

世の中、上には限りなく上があり、下には限りなく下があるものだ。 仕事、富、美、力、競技、生きる世界は実に多種多様である。 ルカの福音書16章でイエスの話に出てくるのは、非常に裕福な男と赤貧のラザロ。 この上なく富を持ち毎日を楽しむ男と、彼の下がいない程、貧しいラザロであった。

金持ちは毎日、宴会の様な食卓にいた。 一方のラザロは金持ちの家の門前で地べたにへたり込み、その家から出る生ごみで腹を満たしたいと願っていた。ラザロの体力は衰え、皮膚に出来た種物は寄って来た犬が舐めていた。 この世を皮肉るには格好の対比であり、一幅の画に収まるほどの短い距離に二人がいる。 金持ちの目には毎日門前に寄りかかるラザロが見えていた。 彼にはラザロも風景の一コマでしかなかった。犬が来てはペロペロとラザロの傷口を舐めている。 金持ちは食べ物を掴んだ指の汚れを柔らかいパンで拭いては、そのパンをテーブルの下の入れ物に無造作に投げ捨てていた。

やがて金持ちは死んでハデス(永遠に火の燃える地獄)で苦しんでいた。 ふと見上げるとラザロがアブラハムに抱かれ、安らいだ顔をしている。 金持ちは叫んだ。「アブラハムさま、どうか私を憐れんでください。そのラザロの指先に水を浸して、私の舌を冷やすように、此処へよこしてください。」 アブラハムは言った。「私達とあなたとは深い淵があり、行き来は出来ない。お前は生きている間、良いものを受けたが、ラザロは悪いものを受けていた。」

この話を読んでみると、「隠れている真理」と「語られている真理」の二通りがある。 先ず前者であるが、金持ちだからハデスに行ったのではない。金持ちがどう生きたかが問われている。 彼が責められるのは、悪いことをしたからではなく、為すべき善をしなかったことにある。(ヤコブ書4章17節) 私達は罪とか悪を実行、若しくは考えたことなどを基準に考える。 だが、金持ちはラザロの現状を知っていながら善を施さず、無視し続け、自らは有り余る財産をむさぼりつつ暮らしたのである。

行動しなかった善、施さなかった愛によって裁かれる。 クリスチャンは勿論であるが、世の中の人間がこのことを知ったら、今より更にあたたかい世になることは間違いない。

後者は「行き来出来ない世界」が私達を待っているということである。 永遠の世界とは、「永遠の神の国」と「永遠に苦しみ続ける世界」だと言える。 この世は時間の世界であるが、永遠には終わりがない。 その二つの世界を選択するのは、「今」である。今、生きている時間の世界においてしか、人は選択できない。

私は子供の頃、小学校の図書室の本を貪り読んだ。 中でも芥川龍之介の書いた「蜘蛛の糸」は忘れられない味があった。

クリスチャンになってルカの福音書16章を読んだとき、「金持ちととラザロ」の話は芥川は絶対に読んでいると、確信した。 生前の芥川の論評が私の脳裏にこびり付いている。 彼はこう言った。『ルカ15章の放蕩息子の話は、世界で最も優れた短編小説である。』 つまり、「放蕩息子の話」の次に「ラザロと金持ちの話」が登場する。

芥川は蜘蛛の糸で、地獄に落ちた大泥棒のカンダタを憐れむ釈迦の慈悲を書いた。 カンダタが生前に、一匹の蜘蛛を踏み殺すのを思い止まったことを覚えていた釈迦が蜘蛛の糸をカンダタの上に垂らした。しかし、カンダタは自分だけが助かれば他はどうでもよい、と思ったことで、結局は救われなかった。

芥川がルカの16章を読んで、感じたものがあったからこそ、「蜘蛛の糸」が書けたのではないだろうか、と私は思った。 それは地獄から天国へ行くチャンスがあっても良いではないか、という思いである。 それは生きている者の願望であり、遺族の願いでもあるし、芥川の願いであった。 願いは願いとしても、しかし蜘蛛の糸が切られてしまわざるを得ない、人間の罪深さ、業の深さを、彼は世に知らしめたかったのではないか、ということである。 だから、ルカ16章は芥川龍之介「蜘蛛の糸」の原点であると私は想像する。

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