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■バビロンの川の畔/詩編42:1~5

1977年、今から39年前のクリスマスの夜。

私が初めて、自らの気持ちで教会を訪問した晩だった。

9カ月前に家内がクリスチャンになって以来、前向きに教会とキリストを考えた日は一度としてなかった。

その晩も別に何らかの目的があったわけではないが、取り敢えず多少は前向きだった。

愛餐会の食事を少し食べて思ったことは、「来週は元旦が日曜だし、切りもいいので礼拝に出たろうか」だった。

それは今年2016年のクリスマス、そして翌年元旦が日曜日という同じ巡り合わせだった。

そして1978年の元旦、私は家族と一緒に礼拝の場に座った。

別に何を思うでなく、単に礼拝に付き合ってやって座っただけである。

帰り道、何があったわけではないが、何か気分が変わったと思った。

おそらくそれは、家内の信じるキリスト教に付き合ってみたが、別に自分に害を及ぼすものではないのだ、という単純な感想だったかも知れないし、家内に一歩譲ったことにも「負けて勝つ」的な思いがあったからか・・・・

何が嫌で教会へ行かなかったわけではない。

聖書が嫌い、キリスト教が嫌いと言っても特別な理由は無かった。

嫌いだから嫌い、だけである。

そういえば子供の時に長ネギも玉ねぎも大嫌いだった。

で、大人になったら好きになった。

そんな程度である。

何とも駄々っ子のようである。

社会人として立派?に生きて来てたのに、今となっては恥ずかしい限りだった。

どうも男とはその程度のものなのだろうか?

要するに生理的に嫌い、ということだ。

屁理屈も理論も無い、嫌いだから嫌いなのである。

家内の入信に際しては「憲法で認められたこの国の自由を、私が止める理由は無い」だった。

生まれて初めてのキリスト教会の礼拝が終わり、私はその足で青梅の町中にある住吉神社へ初詣に行った。

境内から見渡した町の景色は、どんより曇った正月の空だった。

何故か、それだけは明確に記憶にある。

教会の礼拝に関してこれっぽちの記憶はなくても、正月の空模様と景色が残っていたことは笑える。

ふと、心を掠めた思い

「今年は何か良いことがありそうだ。一日の中で日本の神と欧米の神を拝んだから。」

そう、予言は当たったのだ。

思いもしなかった、望みもしなかったことが起こったのである。

それから二か月半後の3月12日、聖書のアブラハムの神は、私の心の扉を激しくノックした。

求めもしなかったのに、聖書を眺め初めて10週間、何も意識に残らなかったのに、アブラハムの信仰が私を揺さぶった。

アブラハムの信じる神を、私は知らない。

だが、知りたい・・・それほどに信じられるなら。

あの日からキリストに捉えられて39年。

よくぞアブラハムの神はこんな者を見捨てず、忘れず、39年も守って下さったものだ。

詩篇42篇、素晴らしい詩が当時の私の心を捉えた。

『谷川の流れを鹿が喘いで飲むように、私も喘いで主よ、あなたを求めています。

私の魂はこれほどあなたを求めているのに、今、私が置かれた環境はどうでしょう。

この異教の地で人々は「お前の神はどこにいるのか。」彼らは口々にこう叫ぶのです。

私は思わず、あの頃を、幸せだったあの頃を思い出します。

あなたの宮へ、神の家へ、人々と共にゆっくり歩いて行ったあの頃を。

今、我が魂は絶望しています、あなたの御前で思い乱れる私です。

だが神よ、私はあなたを称えます。

たとい、周囲が、目の前がどんなに理不尽であれ、私は主よ、あなたを待ち望みます。』

そして思った。

人間とはその魂が求める生き方と、内なる霊が求める生き方は異なることを。

違って当然なのであると。

それは決して二重人格ではない。

生まれて初めて自己分析が出来た日だった。

BC7世紀、ユダヤ人は北の国、アッシリヤ帝国に捕囚となって多くが連れて行かれた。

バビロンの川の畔で、異教の民は酒の席でワイワイ囃し立てた(詩篇137編)。

「どうだ、酒の肴にお前たちの神の歌を歌ってみろ。」

それを聞いたとき、ユダヤびとは思わず持っていた竪琴を柳の木に立て掛けた。

それは怒りと屈辱と、自分達が背負った哀れな運命の下に神の選民である自分たちを思ったからだった。

彼等は異邦人の視線に晒されながら憚らず泣いた。

「どうして異教の地で、この国で、神を知らない人々に、我らの主がおられないこの場所で、神を称える歌を歌えようか。」

私たちクリスチャンとて実に心揺さぶられる場面である。

私達にも「バビロンの川の畔」は巡ってくる。

この国の実社会は、誠の神も、誠の救い主も知らない。

人々はキリスト信仰を知りたいとも思わない。

だが、キリストは、この日本の人間社会であればこそ、私達の信仰の表面化を待っておられる。

私達の証しを待っておられるのだ。

だから、賛美の竪琴を置いてはならない。

それは人々が求めずとも、キリストが求めておられるから。

この人生の1ページでも半ページでもいいから、素晴らしい生ける神を、よみがえりのキリストを証ししようではないか。

そのために、ただそのために、私が其処に置かれたのだから。

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