■信仰は息をする/ヨハネ8:19~27

人がキリストから与えられた信仰は生きている。

生ける神からの贈り物、賜物であるから、信仰は生きている。

しかし、時と共に信仰は死んで行くことが少なくない。

それは人間が再び世の常識と道理の中に埋もれて行く過程に従って、生きて弾んでいた信仰も萎んで行くからだ。

救われたばかりのクリスチャンにとって、イエスとの短いハネムーンが終わる時は大きな試練ではあるが、その時こそ飛躍するチャンスである。

つまり其処から自身が本気になって神と向き合い、自分が何をどの様に信じ、どう生きるかを決める時でもあるからだ。

「信仰は息をする」とは、生きた信仰であるならば、ということである。

死んだのか眠っているのか分からないクリスチャンとて、決して少なくない。

仮に、そういう人でもやがていつか、立ち上がるチャンスが巡って来る可能性にあるのだから、せめて教会と礼拝には繋がって行くのが良い。

教会と礼拝から離れて、人が蘇生することは非常に難しい。

クリスチャンという意味は、そういう意味で「キリストのもの」という。

だから・・・・

  1. イエス抜きでクリスチャンとは言わない。

  2. イエス抜きで救われるひとなどいない。

  3. イエス抜きで成長も変革も起こらない。

  4. イエス抜きでキリスト教会は存在し得ない。

  5. イエス抜きでアガペーは語れない。

ユダヤ人がイエスに問うている。

「あなたはいったい誰なのですか?」

「あなたが言う父とは誰ですか?」

これらの質問に直接答えるとしたら、イエスがその場でリンチされても正当な理由に成り得た時代だった。

イエスは答えられた。

「あなた方がもし、わたしを知っていたなら、わたしの父をも知ったであろう。わたしは自分から話しているのではなく、わたしの父のことばを話しているだけである。わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま、世に告げるのである。」

キリスト教は「啓示(revelation)の神」である。

つまり、人間の力では知り得ないことを、神自らが教え示された。

イエス・キリストがこの世に来られ、死んでよみがえられたとき、イエスを信じた人々は神の御愛、ご計画、救いなどを理解出来た。

そしてクリスチャンであるなら、キリストに従属(obedient)する者になる筈だ。

それは「中心となる方につき従う」ことである。

神を神とするとは、そういうことである。

頭で、知識で、上っ面で「神さま、神さま」などと言ったにせよ、そこには血も息も通って来ない。

生ける神は、生きる人間の神である。

神は死んだ者の神ではない(マタイ22:32)。

キリストは「摂理(providence)の神」である。

人生に突然訪れる幾多の不条理、困難、試練、悲しみ、困惑において、私達はそのことの意味と理由が分からない。

だが、やがていつか主がそのことの意味を教えて下さるのだ。

「我が為すこと、汝、今知らず。やがて後、悟るべし」(ヨハネ13:7)と、イエスはいわれた。

(わたしがしていること、あなた方には今は分からない。だが、いつかあなた方が知る時が来る。)

だから、私達は未来に希望を見るのである。

仮に今が闇でも、仮に今が辛くても、そのことの意味は主が知っておられる、いつか主が明らかにして下さるから、ひたすらイエスを信じて生きる。

少なくとも、啓示の神を理解した者は、その方に従属するのである。

そして彼の人生は摂理の神と共に生きる者となれる。

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