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■パダン・アラムの春/創世記31:1~21

パダン・アラム、今のイラク北西部、バグダットから北西へユーフラテス川を上った辺りだろうか。

アブラハムの孫、イサクの次男のヤコブが移り住んで16年を過ぎた頃だった。

叔父ラバンを頼りに生きていたヤコブであるが、ラバンの娘のレアとラケルの二人を娶り、家業とした牧畜に精を出し、財産は瞬く間に増えて肥えた。

二人の妻、そして其々の女奴隷にも子供が生まれ、11人の息子と一人の娘が生まれた。

僅か16年程の間に族長と呼ばれてもおかしくない財産と家族を得た。

杖一本を持ち、たった一人で叔父の元へ転がり込んだあの頃とは大違いの資産家になったのである。

元々は家の中で静かに暮らす男であったが、パダン・アラムを流れる大河の向こうで、ヤコブは土地の人々と自然界に鍛えられ、逞しくもしたたかな成長を遂げた。

ヤコブの生まれた地、カナンの狭い場所で両親に育まれていただけの存在であったなら、決して成し遂げられなかった事業は20年を経ずして完成へと突っ走った。

だが、忘れてならないことはベテルの荒野で夢に現れた神、ヤハウェの約束こそが今、花開き、実をつけたということである。

『見よ、わたしはあなたと共にあり、あなたが何処へ行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしはあなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』

私達は聖書のその言葉を胸に刻みたい。

兄弟姉妹、ヤコブに語られた主の約束は、同時に今を生きる我々へのものであることを、あなたはどれ程信じているだろうか?

それは財産のことではない。

地位、権力、家族など目に見える財産のことではない。

神、主があなたと共に生きて下さるという約束である。

「決して捨てない!」と主は言われた。

「共にいる」と、主はいわれた。

ヤコブは叔父ラバンの態度に変化が見える様になったことを悟った。

ラバンの息子たちの言動にも、それが見て取れる日々であった。

ヤコブの裕福さ、族長の雰囲気をかもす風格、それらはすべて妬みと嫉妬の対象となった。

遂にパダン・アラムのヤコブの人生に春風が吹き始めたのである。

人間はどう生きても利己的な生き物である。

自己中心である。

ラバンとその息子たちだけではない。

ヤコブとその妻たち、母のリベカとて同様である。

しかし、そういう人間の営みが仮にどのようであれ、神は祝福し続けられる方である。

それは、ヤハウェが人の創造者であるからだ。

私達とて然り、行き着くところは利己的で自己中心なものである。

それでも主は私達を慈しんでおられる。

その理由?人間には分からない。

神が愛する故に愛するのである、と思う。

だとしても、人は神を忘れる生き物だ。

何故か?

それは神が目に見えない方であるからだ。

しかし、人の心も、思いも、目には見えない。

主を思う思いだって目には見えない。

だが、神の愛は間違いなく伝わって来る。

なぜだろう?

見えない神、見えない自分の心、それでも確信している。

キリストは私の主、主は生ける神、よみがえられた救い主イエス!

目に見えないとは何と素晴らしいことだろう。

御霊の神は瞬時に私達をご自身の世界へ連れて行ってくれた。

パダン・アラム、見たことも無い地。

広大なメソポタミアの地で、人の肉欲を伴う人生という営みと聖なるヤハウェの嗣業が交錯し創り上げたのは、やはり神共におわしますなら、そらごとの様に思えた口約束さえ、石の板に刻まれた文字よりもはるかに着実に実現に向かうということの証明だった。

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