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■私という罪/ローマ書7:15~25

死は人間にとって最も重く厳しく切実なテーマである。

教会では様々な礼拝を執り行うが、葬儀ほど礼拝堂の空気を引き締める時は無い。

それは礼拝の目的が死を第一に取り上げているからだ。

亡き人や信仰の足跡を忍ぶことは最重要課題かと思うが、第一はやはり神ご自身が最重要課題であることが、キリスト教葬儀だと思う。

そこに立つ限り、死者がクリスチャンであろうと、そうでなかろうと葬儀で行う礼拝は最高の尊厳を伴う時となる。

そこには人間の最後がある。

そこには絶望と悲しみが同居している。

そこには人生の凝縮が迫っている。

そこには明日をも知れぬ人間の儚さと哀れさがある。

そこには弱き人間に迫る神の無言の迫りがある。

司式者はこれらを遺族と会衆と奉仕者に伝える義務がある。

死は生きとし生けるものの宿命である。

それは神の被造物すべての宿命である。

それは同時に「生・いのち」を受けたということの証明でもある。

但し、罪びとのまま死ぬか、罪赦されて死ぬかでは天国と地獄ほどの差がある。

キリストに出会ってしばらくの後、パウロが出会ったのは己が内なる罪だった。

そして、彼にとって罪というものは切っても離れられない性質だと分かった。

罪は彼の内側も外側も縛り付ける鉄の鎖の様に思えた。

だが、鉄の鎖なら切れても、内なる罪は如何とも仕様がなかった。

泣いてもわめいても、罪は離れなかった。

必死に善を求め、義に生きようとあがいても、罪は彼につきまとい幾度ふりはらっても、追いつき、とりすがって離れなかった。

意識すればするほど、罪はパウロの内でその存在を知らしめた。

「ああ、私は何と惨めな者でしょう。」と彼は嘆くしかなかった。

これは悪人の悔悟の嘆きではない。

人として真正直なキリスト者の嘆きである。

パウロは言う。

「私は自分がしていることが分からない。私はしたいと思う善が出来ないで、したくない悪を行っている。」

それは心と言葉、行動は善の方向であると思ったのに、振り返ると結果としてキリストが望まれないものだった、つまり悪であったということだろうか。

普通、誰であれ善を望むだろう。

だが考えるほどに言葉と行動が伴わない、一致しないのである。

パウロはそれこそが「自分の中に住み着いている「罪」である」と位置づけた。

そして私は思う。

「罪」とは単に私のINNERではなく、「私という存在」そのものではないか・・・

私が生きているから、私は罪を犯す。

だが、私が死んでしまうとすれば、私の罪も死ぬ。

生きている限り、人は罪から離れきれない。

ではこの命と体も死ぬしかないのか。

パウロは言う、「死んでしまった者は、罪から開放されている。だから、もし私達がキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きることになる」(ロマ書6:7~8)と言った。

更に「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられる。今、私がこの世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになったキリストを信じる信仰による。」ガラテヤ2:20

パウロはキリストと共に死んだ。

ここに「活路」があった。

既に宗教レベルではない。

私は、ここだけのために、聖書全体があるのではとさえ思った。

そうでなければクリスチャンはどこに生きるだろう?

キリストに死ねば、キリストに生きる者となる、とパウロは言う。

2千年間、聖書もキリスト教の先達も言い続けて来たこと。

それがキリストに生き、キリストと生きることだ。

執着(しゅうじゃく)という言葉がある。

意味は、(強く心惹かれ、心とらわれること。また、深く思い込んで忘れられないこと。)

私達は何に執着しているのだろうか?

世の人々は世の価値観と世の宝に執着している。

クリスチャンはいったい何に執着しているのだろうか?

果たしてキリストではないのだろうか?

「ああ、私はなんと惨めな人間でしょう。いったい誰が、このひどい低劣な性質の奴隷状態から解放してくれるのでしょうか。ただ、神さまに感謝します。主イエス・キリストによって、私は解放されました。この方が自由の身にして下さったのです。」L・Bロマ書7章

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