■私を思い出して下さい/ルカ23:24~48
ある日曜の朝、約15年も礼拝から遠ざかっておられた、ある姉妹から電話があった。
今は遠く南の小笠原諸島父島で暮らしているとのことだった。
島に一つだけある教会のメンバーになりたいので、教会籍を送って欲しいとのことだった。
その後、彼女とはメールのやりとりが始まって、事の成り行きを知らせてくれた。
数名の教会員、高小さい者ではあるが、僅かでも主のために仕えたいとのことだった。
私は喜んで週報と彼女の教会籍を送った。
そして、はるか海の彼方の小島にある教会と牧師と姉妹のために祈った。
彼女の魂と霊はずっとイエスと共にあった。
だが主なるキリストは、その教会の本当に小さな礼拝にも毎週臨んでおられると思うと胸が熱くなる。
主に忘れられた教会もクリスチャンも、決して無いことを覚えたい、と思った。
今週は受難週・・・
一日ずつ、十字架の道を歩まれるイエスを覚えたい。
ルカの福音書23章34節から48節の中に、沢山の真理が語られている。
人間は「自分がしていることが分からない」ものだ。
イエスは苦しい息の中からも、人々のためにとりなしておられる。
「父よ、彼らを赦し給え、彼らは自分で何をしているかわからないのだから。」
一寸先、1秒先が分からないのが人間なのだ。
間違いを犯さないことなど出来ないのが人間である。
2、人間は「救い」という本当の意味が分かっていない。
人生で窮地に陥ったとき、重病で死線をさまよったとき、事業などで大失敗を予想したとき、車を運転していて危うく大事故を免れたとき、思わず口走るのが「救われた!」という言葉ではないだろうか。
だが、人は必ず死ぬ、これを免れる人はひとりもいない。
人にとって真の救いとはキリストに出会い、自我に振り回されて生きていたところからキリストと共に生きる道に入り、「永遠のいのち」をいただいて、「永遠の滅び」を免れたことこそが「真の救い」である。
イエスの隣で十字架につけられた犯罪人はイエスに向かって毒づいた。
「お前が神の子なら自分で十字架から下り、俺たちを救ってみろ!」
群衆は口々に喚いた、「彼はひとを救ったが、自分は救えない!」と。
皮肉にも、群衆の言葉には真理があった。
イエスは自分を救わなかった、だからこそ我々が救われた。
3、イエスだけが天国への道であり、案内人である。他にはいない!ひとりもいない!
もうひとりの犯罪人は、かの男をたしなめた。
「何を言っているんだ。俺やお前はここで殺されても当然だ。だが、この方は何ひとつ悪い事はしなかったではないか。」
そして彼はイエスを見やって言った。「イエスさま、あなたが御国の位にお付きになるとき、どうか私を思い出してください。」
何と言う謙遜な言葉だろう。
彼の悔いた思いが滲み出ていた。
イエスは言われた「今日、あなたはわたしと共に、パラダイスにいる。」
天国は死後に祈られて入れる場所ではない。
そして黄泉に彷徨う、ひまもない。
パラダイスは死んで直ぐに移されるのだ、イエスによって。
行いではない、研究信者でもない。
幼児のようにイエスを信じることだけである。
4、イエスは大声で叫ばれた、「父よ、わが霊を御手にゆだねます!」
それを見てローマの隊長は言った、「本当にこのひとは正しい方であった。」
群衆は直前までイエスの苦しむ様を好奇心の目で見ていたが、イエスが死んだのを見届けると、悲しんで胸を叩いて去って行った。
彼らは己が心の足跡を見させられた。
イエスだけが永遠のいのちである。
彼の他にはいない、これが真理だ。
5、神への応答は瞬時、瞬間のあなたの決心である。
救われたいけど分からない・・。
その先が分からないから不・・。
神を知りたいけど心配・・・・。
人生を長く生きた人ほど不安要素は尽きない。
考えてわかることなど何一つないのに・・。
信じるって、「エイヤッ」とか、「煮て食おうと焼いて食おうと、勝手にしてっ!」そういうレベルかな。
救われる?今日?もうしばらくして?・・来年あたり・・・無理です!あなたは救われません。
ああ、人間は己のいのちさえ一日たりとも延ばせないのに、なんと理性的で心配性な生き物だろう。
どれだけの魂が今日、今夜、明日、失われて行くのに。
救いを延ばして得るものなど何も無いのに。
『今日、あなたはわたしと共に、パラダイスにいます!』
いるであろう、いると思う、ではない。
います!なのだ。
第二コリント6章7節
「わたしは恵みのときにあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。
確かに今は恵みの日、今は救いの日です。」
常に今!である。今という瞬間は神が私たちの答を待っておられるときである。
今が恵み! 今が救いの日!