■あなたは誰のもの?/ヨハネ17:1~11
例えば、世の中の夫婦の心を覗いて見たとして・・・
結婚したての男女の思いは・・・
私はあなたのもの、あなた私のもの、であったとする。
実に美しかったのである、あの頃は。
欲しい物など何も要らなかったのではない、買えなかっただけである。
それでも他には何も要らなかった、物などは。
お互いが目の前にあるだけで、生きている幸せを実感していたのだ。
結婚生活30年経った夫婦の場合・・
いつの間にか二人の間の温度が変わっていた。
私のものは私のもの、あなたのものは私のもの、あなたのものなど何もない・・
ヨハネ17章の中で、イエスが父に祈っている。
「わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのものです、父よ。」
美しいやりとりである。
ここで「やりとりされているのは何か」というと、それは当時の弟子達であり、後にイエスを信じて救われたクリスチャンのことである。
父とイエスが最高の宝をやりとりされている。
その宝とは、私達クリスチャンである。
文字通り、「わたしのものはあなたのもの」です、なのだ。
そんな価値が私達にあるのだろうか?と感じるのは人間であって、神にとっては高価で尊い、目の中に入れても痛くない存在なのである。
父は最愛のひとり息子であるイエスを、十字架という代価を払ってまでして手に入れたいと願ったのが、人間の魂である。
なぜそこまでされたのか?
放っておけば、どの魂もみな「永遠の滅び」へと落ちて行くからだ。
見て見ぬ振りなど出来なかった。
律法でも救えなかった。
奇跡でも人の魂の好奇心を買った程度だった。
最後に父は、身を切るごとく、すべての持てるアガペー(無償の愛)を、地上に投げ出した。
余すことなく人間の救いのために、神はその身を投げ出した。
人間の救いのために。
弟子達と最後の晩餐を食し、イエスは言い尽くせない程のメッセイジを弟子達に遺した。
その最後に、イエスは顔を天に向けていわれた。
「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」
その栄光とは人がイメージ出来るものではなかった。
イエスが十字架に釘で打ち付けられ、苦しみぬいて死ぬという栄光。
人間が考える栄光とは全くことなる。
神だけしか出来ない事が神の栄光でもある。
十字架は神の栄光が、この地上に降り立った神の証しである。
人類をそこまで愛し、すべてを投げ打って捧げつくした愛の実践と実行だった。
イエスのために神の栄光が不可欠だった。
父とイエスの一体性をそこに見たのが私達人間でなくて、誰だろう。
「わたしのものはみな、あなたのもの、あなたのものはわたしのものです。
そしてわたしは彼らによって栄光を受けました。
聖なる父、あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。
それは、わたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」ヨハネ17章
父とイエスが一体であるごとく、弟子達、そして私達教会も一つになる。
「なるべき」とか、「ならなければならない」ではない。
それぞれがイエスを信じているのだから、自然となる筈なのである。
私達は39年前、イエスを心にお迎えして救われた。
クリスチャンとは、その内側にイエスがおられるのである。
だがイエスを信じたとき、その人は「イエスのものになった」のである。
つまり私の中にイエスがおられるということは、同時に私はイエスのものとなった、のである。
私自身、そのところが明確に分かっていなかったと思う。
だから、私がイエスのものとなったから、私は救われたということの方が正しいと思った。
「あなた方は既に死んでおり、あなた方のいのちはキリストと共に、神のうちに隠されている」と、
コロサイびとの手紙3:2は言う。
私は既に神のものとして、神の側に置かれているのであって、私が勝手にしたいことをするなど、やはりおかしいし普通ではない。
今日まで守られ来たりしわが身なのに、いまだに自由を取り違えているとは・・・恐るべし人間の支離滅裂である。