■彼は罪びとの客となられた/ルカ19:1~10
私が信仰をもってしばらくして、新約聖書の中で最も身近な存在と感じたのは、イエスの12弟子の筆頭ペテロでもあったが、それよりも身近に感じたのは「ザアカイ」という取税人であった。
彼の人生は「金が神の人生」だった。
とても分かり易い人生だったが、反面ザアカイは人々から実に毛嫌いされていた。
その原因はローマ政府の税金取り立てシステムにより、占領地の民から税金を取り立てるものだが、その役目は被占領地の民の中から選び出し、彼らを徴税請負人として税を集めさせたことによる。
彼らが集めた税金に関しては税額の査定をするだけで、徴税人自身が仮に幾らをくすねようと大して関知しなかった。そのことに対する民の不満はあるにせよ、徴税に対する不満や怒りは当地の権力者であるローマの総督までは遡らなかった。
つまり、民の不満や憤りの行き先は同胞の徴税人であるザアカイ達に向けられていた。
仮にどれほど一般の人々から罪びと扱いされ、嫌われようと、楽々と金を手に入れられる余禄と比較するならば、当然の如く取税人達は後者を選んだのである。
聖書はザアカイの人生に関して、まったく触れていない。
しかし、「彼は取税人のかしらで非常に金持ちだった」とだけ書いている。
「罪びとリスト」では性を売る遊女、それに並んで取税人は先ず赦されざる者達だった。
ザアカイの担当地域は一年中緑が映え、ブーゲンビリヤが咲き乱れる美しい砂漠のオアシスの町、エリコ地区だった。
1988年二月、聖地旅行でエリコに行ったのであるが、見渡す限り茫漠たる不毛と砂漠の風景の中、エリコの町だけは美しい自然の青々とした木々と、花々が生き生きと咲き誇っていた。
まことに不思議な光景であった。
見渡す限りの地平線はどこまでも死んだような茶色の世界であるのに、数キロ範囲のエリコだけは生きているのである。
そこだけに水が存在したからである。
人の心だって同様だ。
もし、そこに「生ける水がある」としたら決して砂漠ではない。
2千年前、その町にイエスが訪れた。
砂漠の真ん中にある町にせよ、其処だって生きている人がいる。
心が砂漠であろうと、血も肉も生き、持ち合わせた命だって有る。
群衆に取り囲まれながらイエスがやって来た。
ザアカイは背が低かったので、真ん中のイエスが見えない。
彼は是非とも見たかった。
イエスを見たかった。
ザアカイがふと見ると、そこにいちじく桑の木があった。
彼はするすると木に登ると、ようやくイエスが見えた。
ザアカイは見た。
イエスが見えた。
その瞬間、イエスもザアカイを見上げ、ふたりの目が合った。
イエスがザアカイに向かって叫ばれた。
「ザアカイ!降りて来なさい!今夜はあなたの家に泊まることにしてある!」
本当か、イエスが俺の名を呼んだぞ。
どうして?
分からないけど・・・
いや確かに俺を見て、俺の名を呼んだ。
間違いない。
ザアカイは大喜びで急いで降りて来ると、周囲の人々の驚く顔をよそ目に、そして何とも得意げにイエスを自宅にお招きしたものだ。
すると誰かが囁いた。
「見ろ、彼は罪びとの所に行って客となられた・・・」
家の中、ザアカイがイエスに言った。
「主よ、ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、誰からでも、私が騙し取った物は四倍にして返します。」
イエスは食卓についていた人々を見渡しながら言われたものだ。
「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのだから。」
果たしてザアカイはなぜ変わったのか?
どうして変ったのか?
ザアカイがイエスに会ったからだ。
イエスと話をしたからだ。
イエスを見たからだ。
イエスと食事をしたからだ。
そしてザアカイはイエス知ったからだ。
他に理由は・・・?
無い。
そう、彼はイエスを知ったからだ。
クリスチャンになって、教会へ行って、キリスト教をして・・・
それで人は変わるのか?
多少は変わったにせよ、本質的には変わらない!
つまり答えはノーである。
だが、イエスを知ったら人は変えられるのだ。
だから、イエスを知らなければ、人は変わらない。
『・・来て、見て、知って、彼にふれて、彼を味わって見よ・・。」
神はそのためにこの世に来られたのだから。