■見えざる方を見て生きる/マタイ6:25~33
「空の鳥を見よ、野の花を見よ。」とイエスは言われた。
仮に目に入る自然界の一部を見たとしても、そこに見えない神を見ないとしたら、あなたはいったい何を見たのか、とイエスは仰りたかったのだと思う。
そうすれば鳥も花も、造ってくださった神がおられ、守っておられる創造主がおられるのをあなた方は知るであろう、見るであろう、と。
確かにそうだと思う。
夕焼け空を見て郷愁に浸る人は少なくないであろう。
遠く離れた故郷の空を思い出す人もいるだろう。
神のキャンバスと神の絵具、神の絵筆は神であればこその傑作である。
私達が何気なく見上げる空は実にそれであるのだ。
数秒、数分で移り変わる空と雲の色形も、創造主なる神を信じ後から見方が変わった。
人の手によらない空の変化と美しさを見て、不思議なる神の妙なるわざに感動できることは被造物である人間の幸せである。
生き物や野の花そのものだけよりも、彼らの上に臨在し給う神を想うことが出来ることは実は幸せなのである。
偉大なる創造主は蟻の如き、ちっぽけな人間に対して、今日も注がれる温かいまなざしと慈しみは、神を知り認める者にとって、神を知らなかった依然と比べ、情感が幾倍にも掻き立てられる。
『空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることさえしない。けれどもあなた方の天の父がこれらを養って下さるのです。』(マタイ6:26)
鳥を見て、彼らを慈しんでおられる創造主を思うことが出来れば人の心は豊かになれるものだ。
だから知って欲しい、そういう方がおられることを。
鳥よりも、花よりも、はるかに優れた存在こそ人間であるのだから。
一羽の雀さえ、神は見落されない。
ならば、神は一人の人間という魂を心配しておられる。
人間こそ、神の最高傑作なのである。
『野のゆりはどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、つむぎもしません。
しかし、わたしはあなた方に言います。栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
今日あっても、明日は炉に投げ込まれる野の花さえ、神はこれほどまでに装って下さるのだから、ましてあなた方によくして下さらないわけがありましょうか。』(マタイ6:29~)
人は見える世界で生きている。
見える世界の価値観で生きている。
しかし、創造主なる神を認めると、景色だって自ずと変わるし、価値観も変わる。
そして見えるものよりも、見えない御霊なる方の存在が愛おしくなる。
なぜなら、その方によって今の私があるのだから。
その方によって、180度の視界は360度プラス宇宙の果てまでも広がったのだから。
自然界を考えて見た。
自然界は創造者が誰かを知っている。
自然界は創造主にゆだねることが一番、と知っている。
見えない神こそ、大いなる創造主であると知っている。
自然界はそう思って営みをしている。
だから、自然界は美しい。
鳥も獣も、虫も魚も、決して自分を誇らない。
更に彼らは決して自分を卑下しない。
小さ過ぎても、美しくなくても、彼らは堂々と生きている。
今、置かれたままを喜んで造られたまんまの形で生きている。
だから彼らは微笑ましい。
人は今に満足できない。
他より絶えず先を、絶えず量を、絶えず豊さを求める。
それが人の本能だった。
誰よりも賢く、誰よりも多く、誰よりも先に、誰よりも誰よりも・・・
人は創造主を見失ったまま生まれ、生きて来た。
見えない方こそ、一番大切なのに。
見えない方を知る時、人は本当の自分に出会えるのに。
一番大切な方を忘れ、見過ごしつつも、挙句の果てには自分の気に入る神々を作った。
『人はめいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。』士師記21章25節
イスラエルは神を忘れた。
自分達を見つけだし、拾い上げ、洗い清め、生き場を造ってくれた神を見失った。
それは人類全体の姿でもある。
私達の姿である。
やがて神は人のかたちをとられ、自らこの世に降りてくださった。
それはなぜか?
神から離れ、神を忘れて流浪する魂を昔の様に、神のふところに呼び戻すために。
神は、そのために自らが痛み苦しんでご自分を捨てて下さった。
いつの頃からか、私は礼拝と言いたくなくなった。
「霊拝」と呼びたい。
イエスに見つけられ、彼の血潮で洗われ、新生した者とされ、キリストの霊によって今がある。
単に感謝の礼拝、というより御霊なる神の霊と我が霊が一つになれる霊拝こそ、イエスが約束されたことばに相応しいからであるし、それこそ神が求めておられる礼拝と思った。
感情で礼拝するでなく、人間の規律とわざと理性が先行するでなく、キリストが下さった霊(プネウマ)による霊拝こそが、創世記の1章ではないかと・・・
そこに奉仕する人間は見えなくなり、見えない方が満ち満ちて下さる場所になるであろう。
ヨハネ4:23~24節
『しかし、真の礼拝者達が霊と真理(まこと)によって父を礼拝するときが来ます。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊と真理(まこと)によって礼拝しなければなりません。』