■あなたの神/Ⅰサムエル記15:1~9
創世記の時代、創造主は人に対し直に語られた。
但し、全ての人に語られたのではない。
聞く耳のある人間だけに語られた。
ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ・・・。
そして次の時代、創造主は預言者、祭司という極少数の人にだけ、ご自身を現された。
モーセ、ヨシュア、その後は稀にしか現しておられない。
それは人間が創造主を求めず、御ことばを求めず、主を求めず、自分勝手な道に生きたからである。
「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師記21:25)。
サムエルが預言者として立たされると、主は頻繁に親しく、まるで親の様に接してくださった。
サムエルにとっての神は間近で親しく、師と弟子のようであり友の様だった。
新約時代、主はより近く人間に接し、ご自身と密接な関係を築いてくださった。
それは有史以来かつて一度も無かったものである。
神が人の姿をもって、この世に現れて下さった。
ナザレ村のイエスとして、救い主は人間世界に住まわれた。
サムエルの時代、イスラエルは遂に王を迎えた。
サウル王は宿敵ペリシテ人と戦うための王であった。
ある時、主はサムエルを通して厳しい命令を下された。
アマレク人という民族を聖絶せよ、というものだった。
おそらく旧約聖書における最も厳しいことは「大人から子供に至るまで、家畜から財産に至るまで聖絶せよ。」というものだった。
聖絶とは聖別であり、神のものとすることである。
レビ記には生き物すべて、物のすべて、金銀宝も聖絶の対象である。
決して人が触れてはならないのが聖絶という言葉の意味であって、単に殺戮とか滅亡させるものではない。
しかし、意味は違っても内容的には受け入れがたいものがある。
クリスチャンになってこの箇所を目にして躓かない人はいない程である。
だが、受け入れ難いことも受け入れるのも信仰である。
仮に自分がアマレク人だとしても。
サウルは主の命令の通りにアマレクを攻めた。
彼とイスラエルは徹底的に聖絶した筈だった。
だが、彼らが従わなかったことがあった。
彼等にとって、価値あるもの、値打のあるものは聖絶せず、手元に残して置いたのである。
家畜類は特にそうだった。
預言者サムエルの耳に入ったのは、その家畜の鳴き声だった。
サムエルは愕然とした。
「王よ、あなたはどうして主の命令に背いたのか?」
サウルは答えた。
「民は、羊と牛の良い物を惜しんだのです。でもそれはあなたの神、主に捧げるためです。」
預言者は一喝した。「やめなさい、仮にもあなたは主が選ばれたイスラエルの王ではないか。なぜ、主の御命令に背いたのか。主の目の前に悪を行ったのか。」
実に厳しい裁断であった。
が、事実は事実であった。
サウルは言い訳を並べ尽くし表面的繕いに徹した。
だが、彼の行動は特別に彼だけのものではない。
それは私達人間が持っている本能そのものだからである。
言い訳は自己保身の冷や汗の様なものだ。
自然と口をついて出てしまうのである。
醜いのは分かっているし、潔くもない。
弱さの故か、自己中心の故か・・・
だが、主の前には通じなかった。
この章の中でひときわ印象に残ったサウル王の言葉がある。
それは預言者サムエルに向かって何回も語られた言葉。
「あなたの神」という表現。
つまり、サウルにとって神は彼の神ではなく、「サムエルの神」だったということ。
そういう内面をもつ男をイスラエルの民は「王として相応しい」と見た。
12部族の中で最も小さなベニヤミン部族、そこからの出身という生い立ちはサウルにとってなんであったのか?
彼にとって、それは「つまらない者」(Ⅰサムエル記9:21)であった。
しかし、先祖はヤコブの12番目に生まれた末っ子であり、立派な選民の部族だった。
そして彼は、他の誰の肩から上だけ高く、そして美男子であったと聖書は言う。
人間はどんなことでも引け目に感じる要因にすることが出来る。
一方で人間は、他の人より優れたものが最低一つは有るのに、どうしてそれを認めて感謝出来ないのだろう。
もし、「あなたの神」を「私の神」としていたら・・サウルは歴史に名を残す偉大な王となっていた筈だ。