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■衰退と台頭/第一サムエル16:1~23

ある書物に榎本保朗先生の言葉があった。

「預言者にとって一番大切なことは、神のことばを深く聞くことである。

エレミヤは『主は私に言われた』『主のことばが私に臨んだ』と必ず言う。

私達も神のことばを深く聞き、心豊かな生活をしたいものである』

以上は現代の牧師、神学生、教会学校と学びのリーダー、すべて神のことばに仕える人々が心して聞くべきことばであると思う。

昔、生ける神は預言者に向かって語られた。

新約聖書の時代、神は聖書を通し、聖霊を通して人々に語られる。

中でも一番確実な聞き方は、やはり聖書から生きた神の生きたことばを聞くことであろう。

聖書はそのためにあるのだから。

神はそのために、聖霊によって人々に書かせられたのだから。

時代と文化、文明と環境において人間が変わろうと、神は昔から変わらずに同じお方である。

たとえば創世記のことばは、21世紀の今も、そしてこれからも生きているのだ。

39年前、私はイエスさまを受け入れる前に、主がアブラハムの人生で語られた言葉を、私自身に語られたと確信した。

また預言者ゼカリヤが幻(夢)の中で見たシーンにおいて語られたことばは、大祭司ヨシュアに向けてであったがそれは同時に我が身の目と心で、私へのことばとして聞いた。

それは私にとって「救いへの招き」であり、「献身への招き」のことばだった。

おそらく別の殆どの人々はそれを否定すると思う。

だが聞いた当人は私であって、他の誰かではない。

仮に他の誰かが否定しようと、当人にとっては大真面目であり現実であった。

聖書とは、生ける神が今日も人間に向けて語り続けて導き招く、実に不思議な書物である。

当然である、神ご自身が不思議なる方なのだから。

預言者サムエルに向かって主が耳打ちされたことば。

「わたしは、わたしの為に王を見つけた。」

(王とはベツレヘムの出、エッサイという人にとって八人目の息子、ダビデのことだった。)

最近、私の目は、その短いことばに釘付けになった。

神は「わたしのために・・」と語られた。

イスラエルのためにでも、誰かの為にでもない、「主のために・・」である。

それはイスラエル二代目の王として台頭したダビデと言う男の始まりであった。

イエスはヨハネの15章で言われた。

「あなた方が私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」

ここにも選ぶ側、神の言葉がある。

果たして私達は勘違いをしていないだろうか。

私は私の人生のために、キリスト教を選んだのか。

神は私の人生の祝福のために私を選び、出会ってくださったのか。

だが、この二つとも間違っている。

私は私のために物事の選択、人生の選択をしてきたと思うことがある。

そして、それこそが「人の益」となるからだと思う。

しかし、聖書で読むと、神は神のために選択されている。

しかも、それはやがて必ず人のためとなる。

仮に私達が主に従って生きる時、その人生は自ずと整えられる。

たとい、試練や問題がやって来ようと、神は私達に脱出の道さえ用意してくださる。

つまり、人間が神に選ばれ、その魂と霊が神によってほぐされ練られる時、人は神が意図した器となり、それは同時に人にとっても他者にとっても徳のある有益な者となる。

神のものとならなければ、というより、なったのである。

救われたということは、私は神のものとなった、神の子となったのである。

人間は自己保身、自己中心な生き物だ。

それでも主はご自分のことより人間の幸せを求められる。

それは人間が神ご自身の被造物であるからだ。

「わたしのために・・」主はそう仰せられた。

それ自体がイスラエルの国民のためにでもあった。

私のためのキリスト教ではない。

神のものとなったのだから、神がキリスト者として下さるのである。

不思議なる方は不思議なる力と扱いにおいて、人を生み、人を育てられる。

遠い昔、何百年も掛けて、イスラエルも育てられた。

クリスチャンもそうやって育てられる。

だが、限られた時間は数年、数十年である。

短い一生の中で無駄な時間を過ごしてはならないと思う反面、頑固な己が内を見るとき、一番厄介な仕事をしておられる方を認めざるを得ない。

今日も「・・わたしのために・・」と語られる主のことばを思い出す。

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