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■「ヘブル書12:2」出エジプト20:16~17

アドヴェントの期間もあえて、十戒にこだわった。

クリスマス礼拝も十戒だった。

絶対オカシイと言われる前に、自分でもオカシイと思う、と会衆に言った。

世にもオカシイ牧師は「御子イエス御誕生」お祝いの朝、十戒を喋っていた。

何故、今ここで十戒なのか?

それは『神の御子は十戒を成就されるため』にこの世に、お生まれになった。

それだけである。

これで十分ではないか。

イエスが来られなければ私達の罪と死からの開放はなかった

その方こそ、『信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないようにしなさい』(ヘブル12:2)

目をイエスから離したクリスチャンはどこへ行くのだろうか?

糸の切れた凧のように、風に流されながら、やがて何処の地に落ちて行く。

10戒の9番目『あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。』

だが、私達は偽証に関わり、同様に喋っている。

そう思った人は一体、どれ程いるだろうか?

では、お聞きしたい、あなたは誰かに関して噂話したことはないですか?

そのことで持論をぶちあげたことないですか?

勿論、公判における証人ではないし・・・・普通の時間、居間で、職場で。

だから、当事者のいない場所での会話には特に気をつけよう。

昔の世界。

証人が二人か三人いれば、誰かを死刑に出来た。

だから、偽証に関して十戒は指摘したのである。

イエスも偽証で罪に定められたひとりである。

現代、私達は様々な情報やメディア、人を介して、限りなく多くの真実味のないことを耳にしている。

そして隣人に対し、根も葉もない話に取り込まれ、想像の世界に首を突っ込んでいないだろうか。

自分がされたら、死ぬほど嫌なことだろうに。

他人事だからね・・・問題ないよね・・・

クリスチャンだから偽証なんてしないよね・・・絶対に・・・無いだろうか、

だが絶対にしない誰一人100%断言出来ないのだ。

そういう時代であるし、そういうこの世である。

でも、神の子はこんな世に、お生まれになった。

こんな世界を世直しするため?

それもあるが・・・

唯一まことの生ける神を伝えるために来られた。

生ける神ご自身が、ひとのかたちをとられて、この世に降りて下さったのだ。

十戒の十番目、『あなたの隣人(となりびと)の家を欲しがってはならない。』

家だけではない、隣人そのもの、持ち物、タラント、家族、車、身につけるすべての物、生き方、心、思想、凡そすべてのものである。

欲しがるから心が騒ぐ、平安が無い、嫉妬心、妬み心が疼く。

それは妬みから憎悪へ、そして殺意へと変わる。

万物の霊長と言われる人間だからこそ、逆におぞましさと醜さが浮き彫りになって来る。

他者とその周囲へのへしまがった欲望、羨望、願望は止まるところを知らない。

このための解決の道は

人を造られた神ご自身が導いてくださった。

仮に隣人より劣っているところがあるにせよ、隣人が持っていないものを人は与えられているのだ。

自分に与えられたものに価値を見いだせないならば、人は生涯誰かを羨んで苦しむしかない。

今日、幸せを感じたいと思うなら、今、自分に与えられた中から探すことこそ容易であり、確かである。

他者を見て羨む人は、他者の不幸を見て密かに喜んでいるかも知れない。

ヨブ記38章~39章。

人は自分がすべてを知っていると思うほどに、知らない世界は山とある。

例えば、ヨブは彼の神に対する信仰に関して満点なるは己であると確信して揺るがなかった。

或る日、この世のすべての不幸と思われる災難がヨブを襲った。

子供達、家畜、財産、健康のすべてが一瞬にして取り去られた。

それでもヨブは神への信仰は失っていないと自負している。

友人たちが彼を見舞うが、あまりに酷いヨブの惨状に言葉を失った。

そこから友人たちとヨブの間に、人間の罪と神の正義に関する議論が延々と続く。

そのやりとりが終わるころ、遂に神からヨブにことばがあった。

それはヨブの信仰に対する釈明ではなく、試練の説き明かしでもなかった。

先ず、天上における自然界の仕組みが語られるが、どれもヨブが知らないことばかりだった。

しかし、ヨブが暮らす地上の生き物達に言及されたとき、ヨブだけではなく、私自身が自分のこととして砕かれた。

榎本保朗先生の注釈が素晴らしい。

『岩間に生きる野生の山羊や雌鹿が子を産む時を知っているのは、神であってヨブではない。野ロバを放って自由にしたのも、神であってヨブではない。鳥、動物、それぞれが持っている特徴を与えたのは神であってヨブではない。彼らがもっていない弱さ、それは神が与えなかったからである。すべては神の所与であって、人間の納得や協力を得たのではない。野ロバには家畜のように餌をくれる人もいない。憩う小屋も無い。守ってくれる飼い主もいない。だが彼らは置かれたところで生きている。身の不幸を嘆いていては一日たりとも生きられない。草一本生えていない荒れ野でどうやって生きられるのか?それは神が荒野を彼らの家としたからだ。だから、彼らはそこで生きている。

あなたはどうして自分だけで生きようとするのか。

なぜ自分だけを見つめるのか。

野ロバが自分だけを見ていたら飢え死にするだろう。

だが彼等は与えられたそのところを、自分の生きる場所として受け入れているが故に、生きて行けるのだ。』

神を見上げることを忘れたら、人にとってこの世は何だろう。

束の間の・・・旅の空の下か。

天を見上げよう、そこは聖いし、絶対者の玉座である。

唯一まことの神がおられることを否定した人の幸せ観とは何だろう。

何をどれだけ築いても、いつかはすべてを打ち捨てて、この世を去ってゆくのが人間だ。

神を見上げるとき、人間は己に出会う。

自分を愛するイエスに出会えば、心から自分を受け入れられる。

罪があり、おぞましさもあるが、それでも今日生かされていることは喜びである。

キリストだけが真の友であり、主である。

彼だけが私達を開放し、本当の自由を教えてくれる方。

クリスマスと幾度も幾度も口にされるのに、イエスが呼ばれていない悲しさ。

キリストを祝う恵みの時なのに、人はキリスト(救い主)を見過ごしている。

クリスマスこそ彼が中心なのに・・・

ヘブル12:2 『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい』

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