■たかが教会、されど教会、だから教会/マルコ2:1~12
すべての人類が聞くべき一番大切なメッセージがここにある。
マルコ2章一節からの数節。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」と、イエスは常々語られた。
先ず、人は明日死ぬかも、いや今日死ぬかも分からない。
突然の不幸、悲惨な事故、亡くなった人には何の過失も責任もないのに、突然として人生が失われる。
毎日のニュースがそうではないか。
赤ちゃん、青春を謳歌している若者達、責任ある年代に置かれた人たち、誰だってみんな明日が来ると信じきっていたのだから。
だのに・・・・
無駄なこと、と思ってもらっても構わない。
意味が無いと感じてでもよい。
聖書が、イエスが人類に何と言っているかを気に留めて欲しいから。
それは「子よ、あなたの罪は赦された。」である。
中風で痛くて苦しくて堪らない男性を仲間達が戸板に寝床ごと乗せて運んでいた。
何処へ?勿論イエスのいる場所だ。
数日前イエスがその町に訪れた際、多くの病人が癒された。
そんな事を前もって知っていたら・・と男達は後悔したかも知れない。
だが今日、この町にイエスが来られた。
四人は病人を運んだ。
絶対治るから・・イエスが触れてさえくれれば・・・、と確信は不動であった。
ところが!
到着したとき、家の中は人でいっぱい、足の踏み場もない。
イエスさえ録に見えない、どうしたものか?
男たちは考えた。
そうだ、屋根を剥いで室内へ吊り下げよう。
日本では考えられない方法だが、昔のイスラエルでは可能だった。
圧倒的に雨が少ない。
一年で8か月以上は雨など一滴も落ち来て来ない土地柄。
屋根の構造は至って簡単、実に粗末な程である。
担ぎ上げると足場だけは確保し、四人は友人を寝かせたまま、四隅を縛った縄で吊下ろした。
しかし、やはり大変な作業であった。
仮にも戸板だけではない、病人を寝かせた戸板は重かったし、バランスも不安定。
そろり、そろり、寝床は静かにイエスの頭の上に降りてきた。
イエスは驚いて男達を見上げたであろう。
こんな事までして何という連中・・・、人々はイエスが何と発声するか注目していた。
その矢先、イエスが病人に向かって叫ばれた。
「子よ、あなたの罪は赦された!」
その言葉を耳にして誰もが驚いた。
最初に驚いたのは、病人を吊下げた四人であったかもしれない。
「エッ?」
それってなんですか?そんな言葉では無くて、病人に向かって「癒されよ!」とでも叫んで欲しかったのに・・・
別の或る人々は心の中で思った。
(何?罪を赦す?何をほざくか・・罪を赦すのは神おひとりだろうが・・。)
イエスは彼等の心を見抜いて・・・と聖書はいう。
彼等をぐるりと見渡すと言われた。
「なぜ、あなた方は心でそんな理屈を言うのか。中風の人に、あなたの罪は赦されたというのと、寝床をたたんで歩けと言うのと、どちらが易しい?」
そして病人を見やって言われた。「あなたに言う、起きなさい。」
すると彼は立ち上がり、布団をたたんで家に帰って行った。」
人間にとって最も大切なことは、病気から癒されること以上に、罪赦されて救われることである。
クリスチャンである人々はこの事は百も承知だろうか?
だと思う。
だが、多くのクリスチャン達が見落としている。
病が治ることは何よりもすごいし、嬉しい。
そのためには必死で祈る。
だが、その人の魂が神に帰る(つまり罪赦されること)ことは、最も大切なことなのである。
なのに殆どの人々が優先する思いは、病を癒されることだと言う。
人生で一番大事なことは、お金ではなく健康なのだ、と。
確かにそうだが・・しかしお金よりも健康よりも大切なものがあることを知って欲しい。
それが罪の赦し、永遠のいのち、魂の救いである。
クリスチャンになって幾年かすると、救いと言う言葉が霞んでくるのは何故だろう?
それは信仰生活のマンネリ化に因るのかも知れない。
果たして救いは一度の経験、一度体験で良いのだろうか?
彼は決して二度と罪を犯さないのだろうか?
幾度聞いても嬉しいし、声高々に叫ばれたイエスの宣言が麗しく耳に響いたのはなぜ?
「子よ、安かれ、汝の罪、赦されたり!」
やはり、私達は罪びとであり続けるのだと思う。
だからこそ、イエスから聞きたい一声。
「子よ、汝の罪、赦されたり!」