■神の嗣業を担ったひと/申命記3:18~29
就きたくもない仕事をいきなり目の前に突き付けられ、後ろから首根っこを掴まれ、無理やり押し込まれた職場、そこで耳にするのは来る日も来る日も職場の連中の我儘と不平不満ばかり、朝から晩まで愚痴と批判。
そんな人生に40年も付き合わされたら、どうだろう。
宿命か運命か分からないが、耐えられる人など皆無だった。
モーセは神から直接的に「モーセよ、あなたがわたしの仕事を手伝うのだ。」といわれたのである。
やがて夢にまでみた終わりの日が訪れた。
「モーセよ、よくぞやり終えたものだ。さあ、見なさい。これがあなたに用意された景色だ。」と、声があった。
「用意されたのは景色だけ?」
まさか?
思わず耳を疑う。
「そうだ、あなたは今日まで耐えに耐え、あらん限りの力と精魂を尽くしてくれた。
いつでも、わたしに従って仕えてくれた。だが、あなたは一つだけ失敗した。
会衆の面前で、わたしを聖なるものとして栄光を帰さなかった。
そのことで、あなたに許されたのは、この景色だけだ。」
「・・・・・・・・」
出エジプト記、レビ記、申命記の三つの書物に渡って綴られたのは、イスラエルが遠い昔に約束された「彼らの領土・約束の地」に足を踏み入れるまでの経緯である。
モーセの姉、ミリヤムが死んで葬られた後だった。
カデシュにとどまった日、彼等はモーセとアロンに逆らった。
荒野に水なくば即、死であるが、そのいのちの水が尽きたのである。
いつものように民は口々にモーセとアロンに不平を並べた。
モーセもアロンも死ぬほどに聞き飽きた民の不満たらたら・・・。
主はモーセと彼の兄アロンにいわれた、「あなたは杖を取れ、岩に命じれば岩は水を出す。」
モーセは主にいわれたとおり、会衆の前で杖を持った。
そして岩の前で会衆に叫んだ。
「逆らう者達よ、さあ聞け、この岩から私達が水を出さなければならないのか。」
(モーセの内側でついに「かんしゃく玉」が撥ねた。)
モーセは手を上げると、杖で岩に命じたのでなく、岩を二度打った。
すると、たくさんの水が湧き出たので、人々と家畜は飽きる程に飲んだ。
しかし、主はモーセとアロンにいわれた。
「あなた方はわたしを信ぜず、わたしを人々の前に聖なるものとしなかった。それゆえ、あなた方は、この集会を、わたしが彼等に与えた地に導き入れることは出来ない。」
私達とて幾度も身に覚えがあることだ。
思い通りにいかない日、苛立つ瞬間、内なる癇癪(かんしゃく)は膨れ上がる。
ストレスと悲しみ、疲れと苛つき・・そして二度どころか幾度も幾度も壁を打ち蹴って来た。
その日から数日後、YHWE(神)がピスガの峰にモーセを導かれた。
足元のヨルダン川は、くねる大蛇の如く背を光らせながら、ヘルモン山からの水が尽きることなく滔滔と流れている。
この川さえ越えれば、あとは目と鼻の先、彼らとって待ちに待った約束の地である。
遠く北から南まで果てしなく見渡した。
温かな日差しは、けだるい程にゆったりと静かにカナンの地を包んでいた。
足元の死海から真直ぐに、その先へと目で辿ると、遥か彼方に地中海が見えた。遠くはない。
ゆっくりと、自分の目と脳裏に焼き付けるかのように、モーセは黙って見渡した。
YHWEが語られた、「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。
わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことは出来ない。」
モーセは80歳でYHWEなる神に呼び出され、エジプトの奴隷でありながらも百数十万人に膨れ上がったイスラエルの民を出国させたが、結局40年間荒野をさ迷う羽目になった。
荒野では野菜、肉などには到底ありつけなかった。
水が何処にあるのか皆目、見当もつかなかった。
一縷の望みはYAWEの御声と雲の柱、火の柱のみ。
たとい1週間にせよ、荒野に住んでみたいと言う人などいないであろう。
渇ききった地、ところどころに生えている草、散らばった石ころ、まるでこの世の墓場である。
だが、遂に流浪の旅に終わりが来るのだ。
この川を渡りさえすれば、乳と蜜の流れる地は手の届く距離。
それだけを望み見て、耐えて来た旅。
しかし、モーセはその地を踏むことさえ許されない。
何故?
YHWEは厳しい程に不条理な方なのか・・・ついつい読者はそう感じてしまう。
聖書は言う、「主の命令によって、主のしもべモーセは、死んだ。」
人間的な考えではあるが、モーセは実にYHWEに愛された人。
愛されただけでなく、主はモーセを信頼された。
主とモーセ、二人の信頼関係は無二だった。
神と人の二者に、これほどの強い絆が保てるのか、と思うほどに。
だからこそ、「主のしもべモーセ」と呼ばれている。
誰だって苦よりは楽がいい。
短命よりは長寿がいい。
他人にとやかく言われるよりは、自分の生きたい様に生きられれば、それ以上の幸せは無いだろう。
だが、果たしてそれがベストだろうか。
どれだけ生きたかよりも、どう生きたかではないだろうか。
モーセは申命記3章で主に懇願している。
「どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。
しかし主は、民の為に私を怒り、私の願を聞き入れて下さらなかった。
そして主は私にいわれた、『もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることは出来ないからだ。』」
40年の旅の完成を見たい、どんな土地か知りたい、それが人の願いであるのを神は知っておられる。
この聖書箇所を読む度にやりきれない思いに包まれ、そしてYHWEの深い愛を覚えさせられる。
心引き裂かれるような気持ちと共に、「主のしもべ、モーセに注がれる神の御愛」、そして他の者が割り込む隙間が無いくらい、両者の距離感が愛おしい。
それでも、YHWEはヨルダンをモーセに踏み越えさせなかった。
これが神の愛である。
モーセ程、YHWEに愛されたひとを知らない。
申命記34:10「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」
そして聖書は言う。
「主は彼をべテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」