あなたも逃げますか?/マルコ14:57~72
過ぎ越しの祭りを控えた木曜日夜、イエスを捕えてはみたが、彼らは何ひとつイエスを追い詰める罪状を手にしなかった。
偽証する者を立ててはみたが、余りに芝居じみていたため、確証を得るには至らなかった。
真夜中のしかも議員の大勢欠席者がいる中での密告裁判だった。
勿論、その裁判には当初から全員の納得するものではなかったのだ。
幾人かの祭司が異論を唱えたが、彼らはその場から追い出されてしまった。
やがてイエスご自身に証言する機会が与えられた。
律法学者が慇懃にもイエスの顔を覗くようにして聞いたものだ、「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか?」
イエスは彼を見やりながらいわれた、「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座につき、天の雲に乗って来るのを、あなた方は見るからです。」
途端、大祭司は着物を引き裂いて怒りを露わにし、イエスを殴り、唾を吐き捨て言った。
「これでも証人が必要か。どうだ、皆、聞いただろう、こいつが神を汚すことばを。」
そして彼らはイエスには死刑にあたる罪があると決めた。
祭司達と群衆に小突かれ、殴られ、倒されながら、イエスは痛めつけられた。
ペテロはその空気の中で、気が動転していた。
イエスを見続けることが出来なかった。
群衆が騒ぎ立てる僅かな隙間から、ペテロはイエスと目が合った。
イエスの御顔は、思わず目をそむけたくなる程に苦しみに歪んでいた。
誰かがペテロを指さして叫んだ。
お前もこいつの仲間だろう、いつも一緒に居たではないか。」
ペテロは激しく手を左右に振って、「違う、違う、俺は彼など知らない。」
別の男も言った、「いいや、確かにお前はイエスと一緒にいた。間違いない。」
「違う、違う、イエスなんて見たことも、喋ったこともない。」
召使の女が叫ぶ、「あんたはいつもイエスをいたよね、ガリラヤ生まれの漁師だろ?」
ペテロは否定しながら、イエスの方を向いた瞬間、思わず目があった。
殴られて、膨れ上がった瞼の間から、イエスの目は真直ぐにペテロを凝視していた。
怒りというより、何とも悲しげな目だった。
「あ~っ、俺は彼など知らない、知らねえんだ~。」必死になってその場から踵を返した。
人をかき分け、脱兎のごとく走り去り、物陰に駆け込んだペテロはしゃがみこむと、ひとりその場で号泣した。
彼の口から言葉にならないうめき声が発せられ、心は引き裂かれた。
「あー、俺は先生を裏切ってしまった。・・三度も先生を知らないと言ってしまった。」
ペテロはマリヤの顔も弟子仲間の顔も、まともに見ることは出来なかった。
汗と涙の中で悔やむだけだった、「死にたい、死んでしまいたい。。。」
受難週の木曜日深夜、こうしてイエスは十字架へと歩を進めた。
弟子の誰もが、イエスを見捨てた瞬間だった。
こんな日が来るとは、夢にも思わなかった。
たとえ2千年経った今でも、受難週は重い空気に満ちている。
イエスが十字架に架けられた金曜の朝、そして息を引き取られた午後、その日はずっと言葉にならない苦しみが続く。
私こそが彼を裏切った張本人だ。
ペテロ達に比べたら、もっと責任が重いのである。
彼等は知らなかったが、私達は知っている。
でも何も出来ない。
その木曜の夜、教会では毎年「最後の晩餐の時」を持つ。
賛美歌はすべて重苦しい歌、歌詞は21世紀の信徒の心をまるで抉るかのようだ。
まるで、あの晩と空気が全く同じに思える。
主イエスを裏切り、見捨てたのが弟子達だったと同時に私達でもあった。
この集会の祈りは誰の為ではない。
今夕ばかり他者へのとりなしではない。
ただ、主イエスと自分自身、この二者の関係に於いてのみが祈りのテーマ。
願いまつる主なるイエスよ 捉えたまえ我を
道に迷い疲れ果てし 弱きしもべ我を
風はつのり夜は迫る されど光見えず
近くまして聞かせ給え 愛の御声我に
応えたまえ主なるイエスよ 叫び祈る声に
起こしたまえ立たせ給え 倒れ沈む我を
重苦しい時間の果てに訪れる空気は何だろう・・・
聖書は言う・・イザヤ書53章5節
『彼は私達の背きのために刺しとおされ、私達の咎の為に砕かれた。
彼への懲らしめが私達に平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。』