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■初まりの始り/ヨハネ20:1~20

クリスチャンの大きな勘違いの原因は何処にあるだろう?

それは自分など勝利者になれない、敗者であると思い込んでいること。

勝利者になるためには信仰が生ぬるい、足りない・・・これぞ個人崇拝である。

つまり、自分が勝利していないことが問題だと思うことだ。

だが、私生活、問題、過重な重荷、出くわした難問、すべて私が立ち向かって勝利すべきことではない。

神が私達に信仰を与えた給うた意味は何だったのか?

私達が自分を信じるためか?

世が大好きな「自分を信じなさい。」だろうか。

そうではない、キリストを信じるためである。

クリスチャン生活の柱は「イエスの勝利に与ること」これである。

主の勝利が、私の勝利となられた、これがイースターの朝である。

クリスチャンになって長年、聖徒達にまとわり続ける否定的観念。

それは悲嘆、困惑、疑念である。

これらは元来、不信仰に因るところのものであるが、誰もが悩み、陥るネガティブ感情の肉薄である。

これによって信仰も人生も重く暗くなる、誰もが体験する瞬間だ。

キリストは私の悲しみをご存じなのだろうか?

神は私の問題をどうして放っておられるのだろう。

主はなぜこんなに重い荷を負わせなさるのだろう。

何れも深刻な課題となるだろう。

では、何故イエスは勝利されたのだろう?

詩篇の作者も嘆いているが、どこかが違う。

詩篇61:2節

『我、こころ崩折れる時、地の果てより汝(主なる神)を呼ばん。』

彼は「地の果てからであろうと、私は神を呼び叫ぶ。」と言っている。

仮に何処に置かれようと、仮に長年信仰から離れた身であろうと、最悪の状態であろうと、主を呼ぶべきだ。

自分の過去がどれ程に脆弱、不信の日々であったにせよ、「キリストを呼ぶ」ことだ。

我らの主は生きておられる、いつも臨在し給う主である。

アガペーなる主であればこそ、人間の小賢しい考えや了見などゴミ溜めにでも捨て去って、主の前に走り寄り、呼び叫ぶがよい。

今年もイースターが来た。

年に一度、一日だけである。

クリスマス・アドベントと違って、ずっと待ち続けるものでもない。

受難週の暗い重苦しさはイースターの為にある、とさえ思う。

その朝は突然訪れる。

誰もが想像し得なかったこと、イエスのよみがえり。

ラザロがよみがえった時、彼を呼び出したのはイエスであった。

だが、そのイエスが死んで葬られた時、誰も呼び出す者はいなかった。

だが、実際はおられたのだ。

御霊なる神がおられたではないか。

毎年必ず訪れるイースターであるが、その朝は年取る毎に、大きく強い感動が走る。

決してカレンダーに従ってのセレモニーにならない!

私自身、主の晩餐であろうと、バプテスマであろうと、セレモニーにはしたくないし、させたくもない。

もしイエスがよみがえらなかったとしたら、何が無かったか?

新約聖書が無い、弟子達も教会も無い、讃美歌も思想家も、絵画も彫刻作品も無い。

そして罪の赦しが無いから、クリスチャンもいない。

この世には光も希望もない。待ち望む神の国も無い。

考えてみれば、イエスが復活したからこそ、クリスマスまでさかのぼったのだ。

イエスのよみがえりによって、人類の歴史にかつて無かった未曽有の真実が刻まれた。

或る意味、歴史観は大きく狂わされたのである。

死者の復活、新しいからだ、新生へ、やり直し人生へと続く。

罪と死は、イエスの十字架と復活によって葬られた。

1960年代に書かれた榎本泰郎師の言葉が何とも心地良い。

否、クリスチャンはすべて心に刻み込むがよいだろう。

『私達は神の言葉に従って生きようとする時、いろいろな災いを思う。

信仰生活をしてゆく上で、被害を数えたら萎縮してしまう他ないのである。

今日、神を信じるとき、明日のことを思ったら、生きることが出来なくなる。

信仰とは、きょうの信仰である。

神は明日の分まで生きる力を与えていない。

明日の分まで心配する必要など無い、のである。

明日のことは明日にゆだねよ。

そのとき、きょう神のみことばにしっかり立つことが出来る。』

イースター(主イエスの御復活)によって、私達に今があるのだ。

イースターという復活祭によってではなく、「彼のよみがえりによって」、である。

神は御霊の方。

そしてイエスは神である。

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