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■気だるい朝に/ヨハネ21:1~14

2019年四月の終わり、今は亡き一人のロック・シンガーの事が新聞の小さい記事にあった。

忌野清志朗さん、派手な衣装と歌と人生だった。

だが、多くの人々が彼に親しみを覚え、その歌と歌詞に心を掴まれた。

2009年五月、58歳でその人生を閉じた。

沢山の人が彼の死を悼んだ。

今でも彼は人々の心の中で生きている。

彼が三歳の時、実母が亡くなった。

彼は直ぐに母の姉夫婦に引き取られ、育てられた。

叔母と知らずに育った彼だったが、反抗期には彼女と喧嘩し、そして仲直りする。

ずっとそのまま両親と生きる、と信じ込んでいた。

そして突然、彼女は亡くなった。

そのとき、彼を育てたのは、実は母の姉であったと、叔父から知らされた。

其の後に書いた歌は、小さなフレームの中で微笑んでいる優しい育ての母は「永遠の彼女」になった。

「彼女はクイーン・・」そのフレーズだけで忌野清志朗の優しさが人の心に沁み、そして歌われ続けられる。

ガリラヤ湖面を朝陽が舐めるように照らし始めた頃、弟子達は漁から戻ってきた。

湖面は冷たく朝が遅かった。

しかし、イエスが普通に生きておられた頃とは違い、何とも気だるい空気がすべてを覆っていた。

数日前に、主のよみがえられた事を体感してはいたが、やはり以前のイエスとは異なる方だった。

イエスが傍に来られても、「彼は死んだのだ。」という意識は変わらなかった。

「これから何をどうやって生きようか・・・」弟子の誰もが考えてはいたが、それを口にする者はいなかった。

皆、同じ思いと感情だった。

ガリラヤ湖の美しい湖面さえ、生気を感じられなかった。

弟子達は、まるで長い夢を見ていたような錯覚だった。

イエスの言葉、行動、それらは「現実の中で見た夢」のように思えた。

確かにイエスは自分達の目の前で食事し、人々に神の国を伝え、盲人の目を開かせ、不自由な足を癒し、曲がった手を伸ばし、癒されたのである。

でも彼はいない・・・彼は死んだのだ。

「俺は漁に行く。」シモンの力ない声に幾人かが従ってみたが、魚は一匹も獲れなかった。

そのとき、声があった、「子ども達よ、食べる物がありません。」

誰に答えるでもなく、弟子の誰かが答えた、「はい、ありません。」

声は言った、「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば獲れます。」

そこで彼らは網を下した。

すると、おびただしい魚が網に飛び込んだ。

瞬間、ヨハネの脳裏に遠い思い出が走ったかの如く、何かが閃いた。

シモンに言った、「主です!」

2019年四月、イースターの朝、目覚めた瞬間、分かっていても主のよみがえりが意識の中を走った。

言い表せない感動が内に湧き起こり、飛び込んだ主の復活は感謝と喜びの報だった。

一年で最も教会に喜びが満ち溢れるときがイースターの朝。

その反動のせいかどうかは分からないが、翌週の静まった会堂はいつもよりも落ち着いて見える。

だが、イースターとはそういうことの為にあるのではない。

神が信徒に与えた給うた信仰は、尽きず、終わらず、限り無く、未来を想う永遠への希望の朝なのである。

教会の「暦の上の行事」ではなく、現実の中で起こった出来事なのだ。

それは信仰と現実が合体した未曽有の出来事という空間で爆発するのだ。

主イエスの前に立ち、彼を仰ぎ、命ある限り主を讃えるのがよい。

ところで、あなたはクリスチャンになって後、イエスを完全に見失ったことはないだろうか?

私はある!

その坂道はゆっくりと下りつつ、やがてある所に到達した。

「もういい、私は世に帰ろう。昔の様に、世の生活を満喫し、楽しめばいい。」

まるでシモンの気持ちだった、「私は漁に行く。」それしか無かったからだ。

そんな思いを引き摺りながら、幾度も迷い、遂に落ちるところまで落ちた。

とうとう肩の重荷を下ろす日が来た、と思った。

そのときに思ったこと、「何処へ行こう、行く所が無いじゃないか。」

まさか・・、何か有ると期待していたのに。

過去が迎えてくれる筈だった・・・だが、まるきし無いのだ。

そうなんだ、これが時間の人生なのか・・・

如何なる過去も時間の彼方へ消えて行く。

それを悟った時、自然と気持ちを取り直した。

人はこの世から一度出たら、帰る場所など無い。

気だるい朝陽の中の弟子達の様に、毎年イースターの後にやって来る気だるい空気。

あの日から凡そ37年が過ぎた。

しかし、その後イエスは弟子達と共に魚を焼いて食べている。

そうか、燃えあがった気持ちが落ち着く如く、信仰とて普段の生活に溶け込んで行くものだ。

『はじめからあったもの。私たちが聞いたもの。目で見たもの、じっと見、手で触ったもの、すなわちいのちのことば。』第一ヨハネの手紙1:1

使徒ヨハネはこう書いている。

今、私達は信仰の手で彼にふれ、信仰の目で彼を見、信仰のみで信じている。

あの弟子達はその目で見、その手で触った。

何と弟子達は恵まれていたのだろうか、と嫉妬さえ感じる時がある。

だが、私達は彼ら以上に恵まれている。

それは見ずして信じたからであり、触れずして信じた結果となり、我が内なるところにイエスが入って下さった故に彼を知ったのであるからだ。

『主を見ずに信じる者は幸いなり。』ヨハネ福音書20:29節

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