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■500デナリの罪/ルカ7:36~47

牧師生活60年の先生の言葉

「何ごとか、為したきものと勇み立ち、危うく神を忘れんとす。」

とても正直な先生だと思った。

人生のあらましを「主のしもべ」として、神の言葉に仕えた人の実感のこもった言葉は殆どのクリスチャンの共感を呼ぶだろう。

60年と言うキャリアが傲慢をもたらして当然であるし、プライドも当然であろう。

しかし、どっこい先生はサタンの手管に乗らなかった。

正直が一番であると思う。

だが、実際はちょいちょい顔を出そうとする人間のおぞましさを、腹の底に押し込んで生きている我が身である。

 

パリサイびと、熱心なユダヤ教の教派である。

ユダヤ教には、もう一方にサドカイ人びとという教派があった。

両者の仲は決して良いとは言えないが、ことイエスに関しては気が合ってしまうのである。

でも教会の聖徒たちには、そういう輩はいないのである。

人間臭い部分など無いとは言わないが、やはり神の家族であり、兄弟姉妹だからである。

思い起こせばローマの総督ピラトと、ユダヤの王ヘロデは元々非常に仲が悪かった。

置かれた立場と政治的局面の思惑はぶつかるも、互いへ警戒心と欲望はひた隠しにしていた。

そこには権力者の座を維持するためには止むを得ない現実を知り尽くしていたからだ。

だが、その二人さえ、イエスをどう裁こうかという時、なぜか仲が良くなったのである。

つまり憎しみ合う二人であっても、互いに共通する敵が見つかれば、同じ釜の飯も食える仲になるということか。

 

或る日、パリサイびと、シモンはイエスを自宅にイエスを招いた。

イエスに対する好奇心もあったのだろう。

すると、その家をパリサイびとの家と知ってか、知らず、一人の女が入って来た。

彼女はイエスを認めるや、その目に涙があふれ、止まらない。

そしてイエスの傍に座ると涙で御足を濡らし、自分の髪で足を拭い、持って来た香油をぬり始めた。

シモンは横目で彼女を見ながら心で呟いた。

「この女が不道徳で汚れた女と知っているなら、なぜ彼はされるままになっているのだろう。」

シモンの思惑通り、彼女は男達への性的サービスをしている者だった。

 

イエスはシモンを見やっていわれた。

『シモン、あなたに言いたいことが有る。ある金貸しから二人の者が金を借りていた。

一人は50デナリ、もう一人は500デナリ。

しかし、二人とも返すことが出来なかったので、金貸しは二人を赦してやった。

では、二人の内、どちらがよけいに金貸しを愛するだろう』

シモンは即座に言った。「先生、多く借りた方です。」

イエスは言った。『あなたの判断は当たっています。この女を見なさい。わたしがこの家に入って来た時、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足を濡らし、髪の毛で拭ってくれた。

あなたは口づけしてくれなかったが、この女はわたしの足に口づけしてやめなかった。

あなたは私の頭に香油を塗ってくれなかったが、この女は塗ってくれた。

だからわたしは言う。

少ししか赦されない者は少ししか愛せません。』

イエスは彼女の方を振り向いていわれた。

『女よ、あなたの罪は赦されています。』

 

500デナリでも50デナリでも何とかなる金だ。

だが、1万タラントという金は人生を何回重ねても出来ない金である。

つまり人間の罪はこの世の金を幾ら積んでも贖えないということ。

唯一つ、イエスの血、神の血潮だけが人の罪を贖える。

 

あまりに具体的過ぎて言葉を失いつつも、イエスの道理は正しかった。

なにか此方の腹を探られたような思いさえした。

イエスの前に出ると、偽りが通らない。

当然である、神だから・・・。

通らない筋を通そうとする人間の腹がおぞましいのである。

 

「沈黙」昭和40年代に書かれたストーリーには実在モデルがいた。

キリシタン迫害の時代、禁制を見越して同胞の師に会うべく、死を覚悟してこの日本に入り込んだ司祭がいた。

しかし、直ぐに捕えられ、尋問の日々と獄での生活。

殉教する農民、漁民、男女を問わず、地位を問わず、職を問わず、この国はキリスト教を封じ込もうと血眼だった。

時の宗門改め役人は、宣教師は殺すよりも棄教させ、彼らの口を通して「キリスト教は邪悪である。」ということを人民に教えさせた。

これこそが日本からキリスト教を一掃すべき妙案であることに辿りついたのである。

 

ロドリゴ宣教師は、捕えられた日本人キリシタンが逆さ吊りにされ、耳の後ろに穴を開けられ、幾日も幾日も掛けて血を失って死に行く拷問を見るに絶えられず、遂に彼の前に踏み絵が置かれる。

だが、踏み絵は彼にとって自らが自決するよりも辛かった。

自決したとて、目の前の信者は助けられない。

愛するイエス、愛する主、彼にだけは背きたくない、裏切りたくない、だがそれは更なるキリシタンの死体を増やすだけ。

遂に司祭は足元の踏み絵を凝視する。

踏み絵の顔は多くの人々に踏まれ、摩耗しへし曲がって見える。

余りに惨めな踏み絵の御顔を見つめる司祭に板のイエスが無言で語り掛けた。

「踏みなさい、わたしを踏みなさい。わたしはそのために来たのだから。」

声なき声が囁く。

「あなたが為すことしなさい。」

心で聞く声が司祭の背を押した。

司祭の泥と血と涙で濡れた足が、イエスの御顔を覆った。

司祭は崩れ落ち、イエスの上で泣いた。

 

この場面、自らカトリック信者である作家の遠藤周作先生は『沈黙』の後書きでこう記されている。

「ロドリゴの最後の信仰はプロテスタンティズムに近いと思われるが、しかし私の今の立場である。それによって受ける神学的な批判も勿論承知しているが、どうにも仕方がない。」

 

主の愛とアガペーに関して人間の頭と心、ペンなどで到底及べない考えだと私は思い知らされた。

イエスより上はない。

イエスに届く存在もない。

 

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