■何もしなくてよいのです/ヨハネ6:27~37
- 新約聖書/ヨハネ福音書
- 2019年6月23日
- 読了時間: 4分
「何もしなくてよいのです。」突き詰めるところ、キリスト教はこうである。
人間は常に何かをしたがる生き物である。
祈るより何かをしたがる。
想うより行動だと考える。
確かにそのほうが、「やってる観」は有るし。
残念なことに、私などその急先鋒である。
イエスにまかせよ、ゆだねよという意味は、人は宗教的分野に於ける行動が多過ぎるのではないか、ということである。
つまり、行動することイコール奉仕、して差し上げることイコール信仰深いとなり、何かすることが信仰者として当然となる。
一概に言い切れないかも知れないが、人が動いたからと言って、その分だけ神が助かるということがあるのだろうか。
人が神の先を行っているような気がしてならないのは、私だけだろうか。
神は人間に助けて貰うことなど求めていないと思う。
助けてもらうのは人間であるのに、神を動かす人間になっているのかも。
それよりも、「静まりて、われの神たるを知れ」(詩篇46:10)といわれた言葉が重い。
「ひとよ、あなた方は騒がずに静まりなさい。そうでなければわたしを知ることなど出来ないのだから。」と主はいわれている。
或る日、群衆がイエスの前に押し寄せて来て問うた。
『先生、神のわざを行うために、私たちは何をすべきでしょうか?』
イエスが答えられた、『あなた方は、神が遣わした者(つまりイエス)を信じること、それが神のわざです。』(ヨハネ6:29)
イエスを信じること自体、既に人間のわざではない、とイエスはいわれた。
この辺から既に人間は勘違いをしている。
自分が信じたイエス、自分が信じた神、自分が、自分が・・・既に自分が先行、主体である。
そうではなくて、私が信じることが出来たのは、私の力でも何でもなく、既に神が私の内に働いて下さったから、こうなった、のである。
イの一番に霊的行動を取られたのは、私自身ではなく主であられたということ。
私たちはもっともっと謙虚になって、主を想う、祈る、礼拝する者になるがよい。
スタートで既に先走って来たから、私の努力、私の奉仕、私の熱意になっている。
働き疲れては、信仰どころではなくなる。
仕事で前が見えなくなる。
もっとサボろうよ、と言っているのではない。
イエスを信じているんだから、もっとイエスにお願いしようよ、である。
実に信仰も賜物も奉仕も、すべて「神からの貰い物」「賜りもの」である。
何の誉も力もない者だから誇れるものなど、何一つも無い筈だ。
それなのに、賜物が生かせないだの、賜物が少ないだの、不公平だ、などと心で愚痴っている私。
本当に嘆くべきは私そのものである。
「信じる」という言葉ほど、「誤解の投げ売り」が甚だしいことはないかも知れない。
信じています、と簡単に言っているが、その深さや度合いなど、いっさい分からないからだ。
誰だって仮に相手が「私は神を信じています。」言うなら、「そうですか」と言って引きさがらざるを得ない。
好きな歌が新生讃美歌500にある。
1、イエスがいなければ 何も出来ない
荒波に揺れる 帆の無い舟のよう
イェス 主イェス 知ってますか この主イェスを
主イェス 主イェス わが救いの主よ
2、イエスがいなければ 生きる術(すべ)なし
主のみ救いこそ わがいのちのもと
イェス 主イェス 知ってますか この主イェスを
主イェス 主イェス わが救いの主よ
イェスがいなければ、クリスチャン信仰が成り立たないと言うなら、生きるこの人生こそ、イェスにドップリすがるがよい、と思えないだろうか。
そうしなければ前に進めない私たちなのに。
まさか、歌の文句だけで終わらす信仰の人生ではあるまい。
極論かも知れないが、こんな考え方はいかがだろう。
「本当にイエスを知ったなら 他に大切なことなど殆ど無い。」
ヨハネ14章7節『あなた方は、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていた筈です。
しかし、今や、あなた方は父を知っており、また既に父を見たのです。』
実にシンプル明快である。
14章6節『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰一人父のみもとに来ることはありません。』
キリスト教はシンプルである。
本当は分かり易くてとっつき易い。
キリスト教は宗教では無く、ひたすら信仰だと思う。
人間はそれを難しく、難しくして考えたいのだろうか。
いつも思い出す聖句がある。
『神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めた。』伝道者7:29
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