■原罪/創世記2:23~3:13
『見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く』
クリスチャンになって何十年も経って悟るのかもしれない。
上っ面で理解しようとも、深いところに落とすには、やはり年齢を重ねるのが意味があるかと思う。
失敗したり、他人を見て学んだり、葛藤の足跡を振り返って悟ったり、人生に横たわる時間の尊さをつくづく思い知らされる。
若い日には浅瀬で生き、年を重ねたら深みで生きるがよい、と思いつつ中々思った様には生きられないものだ。
確かに見えるものより、見えないものには限りない価値と意味が潜んでいる。
創世記、主がアダムに相応しい助け手を与えられた。
アダムはエバを見て感動し、多いに喜び叫ぶ。
そして創造主を賛美した。
『これこそ。今や、私の骨からの骨。私の肉からの肉。
これを女と名付けよう。』
アダムは人生の伴侶を得た。
ここに『結婚の定義』がある。
『男と女はその父母を離れ、二人は結び合い一体となる。』
これが結婚だ。
このとき、二人は裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
人間は罪が無かったからだ。
やがて蛇が二人に忍び寄る。
蛇とて主の被造物である。
蛇は実に狡猾だった。
(但し、狡猾と賢いは違う。狡猾は悪賢い。こすい。賢いは才知、思慮、分別が際立っている。)
二人が食べてはいけない木は「善悪の知識の実」だった。
それは園の中でたった一本だけだった。
アダムとエバは、その木を見ても見過ごすことが出来た。
それは二人にとって余りに危険であったので、無視し続けられた。
それ自体、二人は主によって守られていることだった。
主が二人に与えた「唯一の決まりごと」がその木であった。
エデンの園は楽園だった。
自由を謳歌し、楽しみは尽きなかった。
主は時として「そよ風」のごとく、やって来られた。
生めよ、増えよ、地を満たせ、自然界は神の祝福に満ち、鳥も動物も生き物は殺し合いもせず、時間を楽しんだ。
被造物は楽園を楽しんだ。
蛇はアダムとエバに近寄って、声を掛けた。
「あなた方は園のどんな木からも食べてはならないといわれたのか。」
エバが答える、「いいえ、どの木の実を食べてもよいのです。ただ、中央の木だけは食べてはいけないのです。死ぬといけないから。」
蛇はじわじわと言い寄った。
言葉を微妙に変化させ、木の実に対して好奇心を植え込み、警戒心を解くために。
遂に女は実を凝視した。
蛇の勝利だった。
蛇は知っていた、実を見させさえすれば、女は手を伸ばす・・
そこで彼女が目をやると、それは「食べるによく」「目に慕わしく」「賢くする」という実はいかにも好ましかった。
「食べるによく」とは体が求めたくなるものであり、「目に慕わしい」とは麗しいと感じる感性がくすぐられたからだ。
「賢くする」とは、他者に依存せず、自己判断で生きることが可能となることだ。
後世、人間は常にこの三つに大きな魅力を感じる生き物であり、喉から手が出る対象となった。
女は一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。
遂に人は、神の助けと援助、擁護も必要とせず、園で唯一、独立独歩で生きる被造物となった。
自分たちは裸であった、と気づいた二人は、イチジクの葉で腰のおおいを作った。
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞くと、園の木の間に身を隠した。
彼らは自分の姿を恥ずかしいと意識し、神の眼から己を隠す者となった。
そして人は後世へと血をつなぐこととなる。
人は生まれて後、しばらくすると自分は自己本位な者であり、自己中心な生き物であることを意識する。
彼の中で「原罪」は暗躍し始め、心も体も原罪のDNAを充分に受け継いでいる。
怒りは敵を作り、心は罪に翻弄され、悩みは尽きない。
誰の血もすべて「神から離れた」ことが最大の問題であることを認めない。
この人類を救うのは、宗教ではない。
彼等が救われる道は、イエス・キリストの血潮だけである。
「わたしはお前と女との間に敵意を置く。
彼は、お前の頭を踏み砕き、青前は彼のかかとに噛みつく」創世記3:15
蛇に向かって語られた「敵意」とは、人間を救う存在であり、イエス・キリストである。
罪に対する敵意である。
イエスを信じて、キリストの血潮で、魂を洗い流していただく以外、人は救われない。
創世記の初めに於いて、主ははるか遠い未来に向かって「約束の稲光り」を示めされた。
その稲妻こそ、イエス・キリストご自身である。
BC750年、イザヤはメシヤの到来が近いことを語っている。
『見よ、処女が身ごもっている。そして、男の子を産み、その名をインマヌエルと名付ける。』
あなたは既にクリスチャンだろうか?
ではあなたは救われておられるだろうか?
あなたの救いはどうして成り立ったのだろう?