■知識は人を高ぶらせ/第一コリント6/12~20
- 新約聖書/コリント第一
- 2019年8月18日
- 読了時間: 4分
知識は人を高ぶらせ、愛(アガペー)は人を建てる、実にアーメンである。
アーメン以外の何ものも無い。
日本語聖書の一番大きな過ちは、三つの愛の意味を使い分けるギリシャ語をうまく訳さなかったことである。
ギリシャ語にはエロスの愛、さまざまな人間関係を形容するフィリオと無償無限のアガペーがある。
これらを一括りにして「愛」と位置付けても何が何だかわからない。
一番大切なアガペーということばを一般用語の様に訳すのは、神に対して非常に失礼な仕事と思う。
当然ながら英語のLOVEとて同様である。
聖書を世界の人々に読んで理解してもらうには、訳せない言葉は原語に帰すべきと思う。
例えばツァラートと現したのは「ハンセン病、他の皮膚病等」を意味する。
特に聖書の世界を忠実に語るべく数限りなく語られ。使われたのが愛(アガペー)という言葉だ。
世界中の読者が、聖書で「アガペー」に出会う度に主なる神、主キリストを想うことは素晴らしいことだと思う。
イエスが地上に降りられたのは、アガペーの象徴、アガペーの出現、人類アガペーを体験するためであったと言っても過言ではない。
第一コリント6:12。
「私にはすべてのこと許されたことです。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」
素晴らしい!の一語に尽きる。
パウロの言葉をもって、私は自分の自由と不自由を知った次第である。
あなたはいかがだろう。
私が考えた自由とは、何でも出来る、何でも言えることだと思っていたが、実はそうではなかったのだ。
昔、クリスチャンになる前の自分の主張はとんでもないものだった。
自由どころか、罪の支配下にあった自分の思いだった。
単に出来る、言える、する、しないが自由ではなく、自分で考えてやる、やらないを判断出来る、つまり益か徳かを当て嵌めて、判断できる人こそが真の自由人だと思った。
更に言えば「自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい」1コリ10:23とある。
自分中心、これこそが罪の諸悪根源である。
アガペーは自分よりも他者を考える。
つまりアガペーは「隣人を愛する」と同時に「(自分中心ではなく)隣人を優先する」のである。
よくよく考えると、そこに当てはまる方は有史以来たった一人だけかと思う。
それこそが、ガリラヤの出、大工の倅、イエス!
知識は人を高め、アガペーは人を建てる、そのとおり。
すべてのことができる、しかし益と徳を並べて、それを選ぶことができる。
そして何事にも支配されない、とは実に自由な人だったパウロ。
私たちは必ずなんらかに支配されている。
まず自我、人間関係、思想、政治、宗教、世の力、生きる環境、仕事の環境。
なんと不自由な世界なのだろう。
誰かのためにと思って行動すること自体、よく考えないと「独り善がり」になっているかも知れない。
人間は実に独善的な生き物だ。
自分が良かったから、人にも体験して欲しい。
この時点で既に独善的なのだろうか。
(昔、どこかの牧師に言われたものだ。)
世界のために、と考えても、世界の人は別のことを考えているかも知れないではないか。
旧約の伝道者のように悩んでしまいそうだ。
ヨブのように何も見えなくなってしまいそうだ。
ヨブ記39章で主なる神はヨブに仰せられた。
「あなたは岩間の野ヤギが子を産む時を知っているか。
雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。」
ヨブはそれを知らない、知らないで当然だろう。
そして私は知らない、当然の如くに。
だが!神は知っておられる。
見ておられる、当然のごとく。
イエスはすべてを知っておられた、見ておられたから。
此処に人と神とのギャップがある。
神は神であって、人ではない。
人はどこまで生きても人でしかない。
人は肉でしかない。
肉は肉であって、聖人ではない。
律法下の様にではなく、パリサイびとのようにでもなく、ただただイエスにぬかずいた取税人の様にでもよい。
胸を叩いて自分の足元を見るしかなかったような徴税人のように、イエスの前にしゃがみこむしかない。
よく考えると、そこでこそ人らしい姿があるのかも知れない。
人間には人間らしく生きる姿が良いのだろう。
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