■experience(体験)/マルコ4:14~23
- 新約聖書/マルコ福音書
- 2019年11月3日
- 読了時間: 3分
道畑さん、岩地さん、茨さん、余市さん、この人たちは何れもイエスを救い主と信じ、受け入れた。
生まれて初めて出会った主を讃えつつ、嬉しい日々を送っていたクリスチャン達だった。
しかし、人生とは実に皮肉なものである。
昔、聞いた「坂本九」ちゃんの歌が頭をかすめる。
「花が咲くときゃ風が吹く 月が出てくりゃ雲になる
とかくこの世はままならぬ 愚痴はよそうぜ 歌でも歌おう
それがね それが浮世というものさ」
歌詞が頭に残っていた。
二番の出だし。
「好きなあの娘にゃ肘鉄喰らい 嫌いな娘にゃ惚れられる」
しつこく三番
「金があるときゃ暇がない 暇があるときゃ金がない」
確かに、この世は思ったように行かないものだ。
と、悟ってしまえば楽なのに。
いや、楽どころかとんでもない恵みに喜んでいるときもある。
想定外の贈り物を貰っている私たちなのだ。
思った様に行かない時があり、予想もしなかったハッピーが飛び来んで来るのも人生だ。
主の「みことば」は実に公平である。
何処にだって、誰に対してだって、語られ伝えられる。
つまり、この世のすべての人に向かって語られている。
イエスさまはちょくちょく言われた。
「聞く耳のある者は聞きなさい」と。
聞く耳をもって聞けば徳などやがて周り回って来る。
そうだ、主の仰せのとおり、聞く耳を持とう、という素直な気持ちが大切なのである。
道端さんは取り敢えず聞く耳はあったのだが、踏み固められた様な心が災いした。
一晩寝ただけで、み言葉など忘れてしまった。
岩地さんは喜んで聞いたのだが、心に根を張るに至らなかった。
興味も探求心も持たなかったからだ。
一応取り込んではみたが、み言葉を軽く扱ったので困難や迫害が来ると簡単に匙を投げるがごとく
放り投げてしまった。
茨さん、細やかで気遣いの出来る人ではあったが、この世のことに気を使い過ぎてしまった。富に対する思い、他人の噂話に乗りやすかったので、み言葉は彼の中で成長せず、実を結ぶに至らなかった。
余市さんはというと見た目は「のほほんタイプ」な人に見えたが、どっこい頭も心も前向きだったので聞いたみ言葉は彼の中でスクスクと育ち、30倍、60倍、百倍の実を結んだ。
つまり上記の様な解釈も成り立つとは思うが、私自身は四人のタイプとして考えるよりも、ひとりの人という設定で考えてみたい。
主の前に立たされた人間であるなら、誰だって初めから「良い地」ではなかったと思う。
何であれ、影響されるには自らの意思で近づかなければ、そして心と耳を向けなければ感化されない。
ひとは悪い影響に対しては簡単に感染するが、良い影響はなかなか受けつけ難い。
関心だって持たなけりゃ影響に到らない。
好奇心だってわかないだろう。
感動できなきゃ時間も頭も神経も使いたくないだろう。
道端、岩地、茨の生える土地の様な心のままでは、主のことばは育てない
聞く力は主から、動く力は主から、働く力も主からくる。
何もかも私たちが頑張るのではない。
イエスの鍬が入り、無益な石ころが取り除かれ、生ける水を味わってこそ良い地になる。
時間もかかるし、削られもしよう。
その葛藤が益になると思えるまでは、主との睨めっこも必要だ。
だから、ハッキリ言って自分が頑張ってはダメなのだ。
自分で頑張ると自力信仰になる。
私などいつの間にか、自分で背負って、自分で処理し、自分で疲れていたものだ。
イエスに祈ることより、自分が動いた方がどれ程、早くて楽かも知っている。
で、あるからして結果も栄光も自分に帰していた。
信仰とは主を信頼し、信用することである。
そのための賜物(いただきもの)が信仰だ。
兎に角、主におまかせである。
私たちを生かしてくれるのはイエスである。
何とかして私の「外なるひと」が砕かれますように。
主イエスが「外なるひと」を砕いてくださいますように。
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