■神の国の1デナリ/マタイ20:1~16

マタイ20章「葡萄園の主人」の話は読む者の心を優しくもチクチクと刺す。

であるのに、決して切り捨てて来ない。

何十年もこの箇所を読んできたが、今回は視点を変えることができた。

話自体は、葡萄園の主人が労務者を雇うために一日五回も町の広場にたむろしている労働者に足を運んだこと。

早朝雇われた者には「一日1デナリ」という約束だった。

九時に雇われた人には、金額は言わずに「相当のものを上げるから」だった。

それから12時、3時、5時にも雇われた人がいた。

驚きである、こんな会社が御国にはあるんだと。

五時から雇われた者は、1時間後に1デナリを手にしてウハウハだった。

それを見て早朝から働いた人たちは幾ら貰えるかとワクワクしていたので大いに憤慨した。

当然ではある。

そして主人は言った。

「私は何も不当なことはしていない。約束の1デナリを持って帰りなさい。」

この話を読む度に、差別待遇をどう乗り切るかと考えるも、自分はやっぱり五時から男なのだから、に行き着かざるを得ない。

しかし、今回はいつもより素直に聖書に向かってみた。

それは冒頭、出だしの言葉が胸に響いたからだ。

「天の御国は・・・」である。

葡萄園の主人と労務者の意見の違いを考えさせているのではない。

葡萄園の主人の小粋な計らいを天国に見立てのでもない。

天の御国の主人、つまり神とはどのような考え方をされるのかがテーマである。

天の御国は、地上の人間が考えるスペースとスケールが違う。

長さ、幅、深さ、高さ、質、そのすべてが全く異なる別世界なのである。

何か今すぐにでも天の御国へ旅行したい気分だ。

そういう場所であるのに比べ、イエスが降りてくださったことで、地上の人間界模様が浮き彫りになった。

人がこだわるのは1デナリ(イエスの時代、当時の一日分労賃)という一日分労賃。

では、天の御国のこだわり何か。

それは『人間ひとりの魂に対する限りなきアガペーと慈しみ』である。

それがすべてだと思う。

例えば早朝から働いた人のこと、人生で例えれば子供の時から教会に居た様な人。

9時は青年期に救われたひと。

12時は成人期に。

3時は壮年期に。

5時は老年期に救われた人として、置き換えてみた。

当時私は33歳、どうせ12時男だから、何とも遅蒔きだとずっと思っていた。

周囲を見渡せば、20代後半で妻と子供数人をかかえ、日曜日には毎週教会へ通っていた模範的な家族が多かった。

ああ、このご夫婦はやはり小さい頃から親に連れられて聖書を学んだんだなぁと、自然に思えた。

別にひがんだのではないが、何となく羨ましいものは感じた。

しかし、それぞれの人生は違って当然だし、置かれた環境も違う、「ま、いいか。」

そう、それでいいのだ。

大切なことはイエスさまに出会うことだから。

出会ってチャンチャンではない、そこはあくまでスタートだから。

見よ、天の御国はきちんと約束の1デナリをくれたではないか。

そして考えたがその1デナリって、もしかして「永遠のいのち」ではないだろうか。

そして割と納得できた。

天の御国が支払う労賃は信仰の人生ひとりに対して「永遠の命、ひとつ!」なり。

御国の主人は言っている。

「ただ、わたしとしては、最後の人にもあなたと同じにあげたいのだ。」

「わたしが自分のものを自分で思うようにしてはいけないのか。」

「わたしが余りに気前が良いので、あなたの目には妬ましく思われるのか。」

天の御国は一つの魂に「ひとつの永遠の命」である。

地上の1デナリは一日の食事で消えてしまう。

だが、永遠の命は、あくまで永遠である。

「後の者が先になり、先の者が後になるものです。」そうか、主人が天の御国であるからだ。

永遠の命をどう考え、どう生きるかで、後の者が先になる、か・・。

一生、主に仕えても「永遠の命、ひとつ」、数十年仕えても「永遠の命、ひとつ」仮に一年に満たなくとも「永遠の命、ひとつ」。

人間一人には一つだけで十分だ。

幾つあっても意味がないし、ひとつで用は立派に足りる。

大事なことは、その命を絶対手離さないことである。

つまり、イエスを離さない、イエスから離れないこと。

聖書にいそしみ、礼拝に通い、キリストを見上げ、主と交わりをつなぐ、そのことの延長とプロセスに「永遠の命」は常について回ると信じよう。

このお話の2章前にイエスが貴重なたとえを話された。

天の御国の主人がしもべ達とお金の清算をする場面がある。

或るしもべは主人から1万タラントを借りていたが、余りに大金だったので清算できなかった。

伏して泣いて謝るしもべに主人が言った。

「わかった、仕方ない、お前の借金を帳消しにしてあげよう!」

しもべは、主人の前から喜んで去るその足で、彼の100デナリを貸してあった仲間の所に行き、首を絞めて言った。「さあ、私の金を今返せ!」

仲間はしもべの前にひれ伏して頼んだ「もう少し待ってくれ、必ず返すから。」

しかし、しもべは承知せず、彼を連れて行って借金を返すまで牢に投げ入れた。

この成り行きを見ていたしもべの仲間は、非常に悲しみ、その一部始終を主人に話した。

主人は怒ってすべての借金を返すまで、しもべを獄吏に引渡した。

1万タラントは6000万デナリである。

単なる6000万円ではない、6000万日分の労賃である。

6000万日を365で割ると164383年となる。

164383年働いて得られるお金。

この世で誰一人として返せない金。

仮におぎゃあと生まれて直ぐに働きだしとして、100年生きて・・・桁が違う。

164383年分労賃、つまり、これこそ私達ひとりひとりが神に返済すべき罪の負債合計額。

もしかして誰かがあなたに犯した100デナリの罪を赦さずして、1万タラントを赦して貰っている感想は如何だろう。

他人の罪は私の目に見えるが、自分の罪は自分の目に見えない。

だが覚えよう、神は見ておられる!

それを聖書は指摘しているのだ。

たった一人分だけで164383年の罪を負われたイエス、ではすべての人間のための合計は?この世の価値観でも数字でも、その答えは出て来ない。

ひたすら信仰のみ!

一人分で60000000デナリは1万タラントだから

この数字に語呂合わせしてみて、幾度も主の十字架を想う。

イムベキヨミハミッカ・・・なりと出た。

だが、なぜ天の御国はこれほどに「お金」にこだわるのだろうか?

罪をお金で支払うことなど出来ないのに・・・

あなたは、そんなことを考えたことがあるだろうか。

一言、『人間はそうでもしない限り、自分の罪の重さが分からない。』

Amen

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