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■ 年の初めに思うこと / ヨハネ13章1~15 (2010-01-03)

年の初めに思うこと、それは今年がどんな1年になるだろうか、ということであろう。 誰もが試みは少なく、嬉しいことを多く願いたいのである。 だが、人間には1秒先も分からない。増してや1年先などとんでもない話しである。 人生に暗雲は付きものである。 その雲の下で不安と困惑が生まれ心は沈む。 眠れない夜が続き、体への影響も感じてくる。 辛い時間がいつまでも継続するようにしか思えない。

人生は晴れた日ばかりはない。 私など雨の日が続くと、自然と気持ちが落ち込んでいるのが分かる。 だが、時として否応無く神は暗雲をもたらされる。 だから、その意味を覚えて置くことは決してマイナスではない。 オズワルド・チェンバーズ先生はこう言われた。

『人生の雲は、神がそこにおられることの「しるし」である。 神は私達に試練を通して何かを教えられるのではなく、私たちが頼りとするものを削ぎ落とし、単純に神だけを信頼する幼子にするためである。』と。 なるほど、と思う。 人は知恵も知識も欲しがる。それらが自分を助けると思うからだ。 しかし、神は人間を幼子となるように求めておられるとは。 そうでなければ、人は絶えず知恵や知識に頼り続け、やがては神以上の存在にするからだろう。

ヨハネの福音書13章は最後の晩餐の場面である。 食事の途中、イエスは突如立ち上がられると、しもべが使う手ぬぐいを腰に挟んでしゃがみこむと、弟子達の足を洗い手ぬぐいで拭われた。 だが、ペテロはそれを拒んだ。 「主よ、あなたが私の足を洗われるのですか?どうか、おやめになってください。」 イエスは言われた。 「わたしが洗わねば、あなたとは何らの関係もない。」 するとペテロは「主よ、足だけでなく、手も顔も洗ってください。」と言った。

足を洗う・・つまりイエスは彼らに触れられた。 そしてイエスは、私達の魂を罪無き血潮で洗われた。 だから私達は救われた。 知識や知恵が私を救ったのではない。 キリストが私を洗われたからだ。 キリストが私に迫ってくださったからだ。 すべてはキリストが主語である。述語は「私を洗われた」「私に迫られた。」 だから、この1年、キリストが主語の人生であり、イエスが主語の証しをしたい。

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