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■ 義人はいない、一人もいない / ローマ人への手紙2:25~3:18 (2007-02-04)

祈り、これはクリスチャンが神からいただいた最高の賜物である。ジョージ・ミューラーは19世紀のイギリスにおいて、施設を作り数十年間にも掛けて、万にも及ぶ孤児達を養った人であるが、子供達の食事代から施設の建物、土地代に至る膨大な費用と時間と労力は、すべて「祈りだけ」で神から与えられたと聞くとにわかには信じがたいであろう。しかし、事実である。彼の頼るところは唯一なる神、キリストであったが、彼の祈りが天の蔵の扉を開き、必要なものはすべて完全に与えられたとある。それほどに長い年月と膨大な費用と働きを考えると、神などいない、などと、誰も思わない。 しかし、貧しさはいつもつきまとい、困窮は絶えずやってきた。しかし、振り返ってみると、必要は完全に備えられたと彼は語る。

私たちは神の働きがいつも遅く思える。何故、もっと早くしてくれないの?とあせっている。 J・ミューラーもきっとそのような場面を幾度も踏んだであろうが、振り返ってみると、神さまは決して遅れず、早まらず、であったそうだ。まるで観客をそわそわさせるストーリーのようだ。だが、神の助けが来るためには、私達が神を信じることが優先する。今は助けが見えずとも、ジャスト・タイミング、それも「神さまのとき」にやってくるのだ。いらいらする暇があったら懸命に祈ることである。祈りをしないから、時間の経過が遅く思えたり、早く思えたりする。

聖書、ローマ人への手紙には有名な言葉がある。「義人はいない。一人もいない」つまり、この世に億万の人間がいたとしても、神の御目にかなう正しい人は一人もいない、ということである。我々の周囲には正しい人がいるように思えるが、神の御眼にかなう人はいないのである。誰も皆、自分のための善行であり、自分を中心として生き方なのである。何はさておいても、神を第一に求める人は一人もいない、と言うことである。

優れた人間は少なくない。他者を思いやる人も少なくない。見知らぬ人のためには危険を顧みない人だっている。だが、人間は神の前に、間違いなく罪びとである。 十字架のイエスの血の代価によってしか、人間の罪は赦されない。これは、創造主が考えられ、実行された救いの方法である。「イエスの十字架が自分の罪のためであったと信じなさい。それがあなたの救われる道である。」これが聖書のメッセージである。 だが、人間は神の方法を喜ばない。人間は自分の方法を選びたいのだ。と、言うことは、十字架は勿論であるが、創造主さえ信ぜず、受け入れず、なのだ。ここに聖書が指摘する言葉があてはまる。「義人はいない。一人もいない。」

クリスチャンだけが、「私は罪びとです」と言う。 しかし、多くのクリスチャンが、「自分こそが最悪の罪びと」とは思っていない。 そして「世の人々こそ、どうしようもない罪びとだ」などとと思っている。 ましてや世の人々は、自分が罪びとだなどと夢にも思っていない。 ・ ・・義人はいない。一人もいない。・・・・

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』 「・・・られる」と書いてある。受身である。だから、我々は神に向かっては受身の心、受身の姿勢、受身の心境にならねばならない。そこにこそ、「赦された」「義とせられた」自分を見出し、「罪びとである義人」を見出すのである。

本当のキリスト者の祈りとは、そういう心から生まれるのであろうし、神はそういう人の祈りを聞かれるのだと思った。J・ミューラーの生き様に触れる必要があると思った。彼は人間には一切助けを求めず、ひたすらキリストに、より頼んだ。だから、神は彼の奉仕を通して、ご自身の栄光を現されたのである。 ほむべきかな、主の御名は!である。

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