■ 死にきれない私 / ガラテヤ人への手紙2章20節 (2009-03-01)

パウロはガラテヤ2:20で言う。「私はキリストと共に、十字架につけられた」

私達は言う。「キリストが私の罪のために、身代わりになって死んでくださった。」 確かに罪の贖いにおいては、そのとおりである。 しかし、この信仰生活の継続においては日々、自分を十字架につけて行くことである、と思う。十字架で死んで行くことだと思う。

イエスさまの言葉、ルカ9:23 「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うてわたしについて来なさい。」

自分を捨てなければ、十字架には上れない。 自分がキリストと共に死ななければ、自分を捨てられない。 そしてこの二つから目を離しては、キリストについては行けない。

何故死ねないかと言うと、「この死」は自分の意思に拠らねばならないからだ。肉体の死は、自分の意思とは関係なく、否応無く死んでゆくのだが、信仰による死は決心を献身を伴う。 自分が本当に神に対し、すべてをささげきらないと、死ねない。 だから、どうしてもゾンビ?状態で、世と信仰の狭間で生きることになる。このほうがみっともないし、何とも情けない姿なのだが・・・やはり死ねない。

アメリカ映画界最高の栄誉、アカデミー賞で日本映画が二つもオスカーを獲得した。 まさに快挙である。日本映画はこれまで欧州で様々な賞を得たが、いわば映画産業のメジャーの地で、オスカーを取ることは適わなかった。それはアカデミーにおいて、最終的な評価を受けられなかった、からである。 日本人として実に嬉しい。ヨーロッパで幾ら賞を得ても、感覚、センスと言った点ではどうしてもアカデミーから評価されなかった。今までノミネート数は10回を超えたとしても、オスカーは最後には逃げて行った。 つまり、アカデミー選考委員の心を揺さぶることが出来なかったからだろう。

「おくりびと」早速、見に行き、深く感動した。そして心に沁み込んだ。実に素晴らしい芸術品であると思った。娯楽以上の意味あると感じた。 私の感想では死者が主役の映画であった。そして、それぞれの死者は実に見事な演技であった。送る側の思い、遺族それぞれの姿に心が揺さぶられる。 映画全体に低く流れるチェロの音色が観客の心を癒し、抉る。悲しいだけでなく、様々な感情に触れられ、涙と笑いという両極端の呼び水となる。 死を美しくも感じる。

そう、死はまさにDEPERTURE(出発)である。 しかし、キリストに生きてこそ、キリストに死んでこそ、神の国への出発であるが、キリストを拒んで神の国へ出発、とは行かない。 永遠の滅びヘのディパーチャーは、余りにも悲し過ぎる。

日本仏教において、死は穢れ(けがれ)である。 その穢れを清める役は「塩」である。このへんは、神道の力?か。 更に旧約聖書でも死は穢れとして扱われている。 命と魂の無い体。それが死体である。 だが、故人はその体によって、この世では一つの存在であるところの個人であった。 だから、死体は仮に物体に変わり果てたとしても、やはり個人を証明するのである。

パウロは今、生きつつも「私は十字架でキリストと共に死んだ」と宣言した。 それがキリスト者の目指す場所である。 生きながら死を目指す。生きつつ死ぬ。だが、単なる死ではない。キリストに死ぬことである。

そして、私は十字架に死にきれない。 あなたは、いかがだろうか? 死にきったであろうか?

私はイエスに死にきれない。 死のうとしても、やはり死にきれない。 そして「死にきれない自分」を知って、「自分の十字架」が理解できた。 これを背負って、主について行くしかない。

詩篇116:15に「聖徒の死は主の目に尊い」とある。 (勿論、詩篇の記者が言う意味は肉体的死を指すが。) キリストと共に、十字架に死んだ自分を見られる者は、まことに幸せ者だと思う。 そして、私に出来る最高は、死にきれない自分を認めて、キリストについて行くことか。せめて、その道を導いていただきたいと祈ろう。

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