■ Open your EYES / ヨハネ9:1~41 (2012-07-15)

「先生、この人が生まれつき目の見えないのは、先祖の罪ですか。それともこの人の罪ですか?」 弟子達はイエスにそう問うた。 盲人は幾度、そういう言葉を聞いてきたのだろう。 生まれてからずっとそれを聞いて生きて来たのである。 そして、彼は道端に座って物乞いをする以外何も出来なかった。

イエスは言われた。 『彼の罪でもない、先祖の罪でもない。神の栄光が現れるためである!』 (と、私はイエスの答えに思わず「!」マークを入れてしまった。) 少なくとも歴史上、聖書においてイエスの言葉を聞いた人々だけは、同様に目を覚まされたと思う。 神の栄光が現れるために、生まれつき、弱さやハンディを背負わされた。

人間にとって理解できないことは無知であることだけでなく、不安に落とし入れる。 やがて、それは偏見を生む。 人は現代社会も大昔と同様である。

イエスは足元の土を唾でこね、指で盲人の目に塗った。 そして言われた。「行ってシロアムの池で目を洗いなさい。」 盲人は言われたとおりにした。 すると、彼の目は開いた。 神の奇跡が彼の上に現れた瞬間だった。 彼が「イエスの言われた通りにしたから」であった。

直ぐに近所の人々は驚いて口々に叫んだ。 「この人は本当に物乞いをしていた人だろうか?」 「いいや、彼ではないだろう。顔つきが違うぞ。」 眼のあいた盲人は言った。 「私がその人です。イエスという方が私の目に泥を塗り、シロアムの池で洗ったら、目が開いたのです。」

近所の人々は彼をパリサイびと(熱心なユダヤ教徒の一派)の所に連れて行ったが、事は更に大問題となり収拾はつかなくなった。 イエスの癒しは安息日を守らなかった(働いたため)対象と決め付けられ、律法に違反した罪びとであると判断された。

パリサイびとは執拗に彼に問い続けた。 「あなたの目はどうして開いたのか?」 彼らは幾度も幾度も問い続けたが、目の開いた盲人の答えは一つだった。 「イエスという方が私の目に泥を塗り、シロアムの池で洗ったら、目が開いたのです。」 そして人々は彼をユダヤ人コミュニティから追い出した。

イエスは彼を見つけ出し言われた。 「あなたは人の子を信じるか?」 実に感動の場面である。 イエスが彼を探し、見つけ出し、今、目の前に立ってくださった。 彼の人生が、遂に神の光りに覆われた瞬間が来た。 それは目が開いただけでなく、目の前に救い主が現れたからだ。 「主よ、私は信じます!」

イエスは振り向いてパリサイ人に言われた。 「わたしが来たのは、目の見えない人が見えるようになり、見えるという人が見えなくなるためである。」 パリサイびとは聞いた。 「私達も盲目なのですか?」 イエスは言われた。 『もし、あなた方が盲目であったなら罪はなかったであろう。しかし、あなた方は「私達は目が見える」と言う。あなた方の罪は残るのです。』

確かに、である。 私は見える、と自負している人は、目に見えぬ神の働きなど見ようともしないし、見えない。 人の限界を悟り、愕然としゃがみ込む人は暗闇に一条の光りを見て、見えなかった世界に神を見る。

賛美歌「主よ、我を捕らえたまえ」の詩を書いたジョージ・マセスンと言う人は、大学時代に視力を失った。 そして愛し合っていた婚約者は彼の元から去った。 真っ暗闇に絶望が追い討ちをかけた様な彼の人生に、イエスの光は彼の道を照らした。 彼は牧師となって主に仕え、多くの賛美歌を書き上げた。 ジョージ・マセスンの目が見えなくなった時、彼の霊眼が開かれた。 「♪ 主よ、我をば捕らえたまえ、さらば我が霊(たま)は解き放たれん」 アーメンである。 主があなたや私を捕らえて下さらねば、何が見えるというのだろう。 主が見させてくださらねば、何を見えると言うのだろう。 是非、ヨハネ9章を読んで、臨場感を持って読んでいただきたい、と思う。 きっと、今まで見えなかった景色をイエスは見させてくださるから。

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