■ アドベント1・その日は来る / マラキ書3:13~4:1 (2008-11-30)

今年も既にアドベント(待降節)の季節となった。 主イエスのご降誕を待ち望むことは、現代であっても意味が深い。 21世紀のキリスト者として、イエスのお生まれになったことを考え、同時にやがて来るメシヤ(救い主)を待ち望む大昔、旧約聖書時代の民の心が偲ばれる。 何という恵みと祝福であろうか。罪赦されて、やがて、この人生が閉じられ、主の宮の門に立つとき、地上では体験しなかった感動と体験が私達を待つ。 苦しみ、呻き、悩み、涙、薬、痛み、すべての嘆きから解放され、昼も夜もない神の栄光に照らされる世界で、永遠の主を仰ぎ見るのだ。 地上では、およそ考えも及ばなかった聖書の不思議が、目の前ですべてがあからさまになる。 そう思うと、今、この信仰の人生そのものこそ、素晴らしいアドベントであるかも知れない。

旧約聖書の最後に位置するマラキ書、別にマラキと言う人が書いたのではなく、[神さまの言葉を聞いた」つまり「託宣」と解釈する。 この書の次は空白の1ページがあって、その次には新約聖書の「マタイの福音書」がある。だが、この空白の1ページが、時代にして、およそ400年と言う時間がはさまっている。

今から4百年前の日本は、徳川家康がいよいよ江戸幕府を開き、征夷大将軍として任命を受けた頃であるらしい。 そして、イエスがお生まれになった2千年前の日本はと言うと「弥生時代」の頃らしい。 殆ど永遠の大昔である。だが、私達にとってイエスは今、生きておられる。 なのに、弥生時代の方がはるかに大昔に思えることが面白い。

マラキ書3章13節以下に二組の対比されている人々が語られる。 一方の人々は、「神などいない。居るものか。神に仕えるなど空しい。 時間があるなら今を楽しめ。どうせ人生一度なら、良かろうと悪かろうとお構いなし。 生きている内に自分の得になることをやって、したいことをしたらいい」 と、言う人々である。 確かにそう思えるときもある。 教会に行かなくても、礼拝しなくても、病気にもならず警察に捕まりもせず、ノウノウと生きている人たちがいる。 以前は確かにそう思ってしまう瞬間もあった。 (かく思う私も、その昔は同様の者でしかなかったのだが・・・)

しかし、16節以下を読むと、クリスチャンでさえ、身と心の引き締まる思いがする。 そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。 主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。 「彼らは、わたしのものとなる。わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。 人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

やはり、再び昔に戻ることはできない。 神さまは耳を傾けられて、私達の語ること、考えることを聞いておられる。 そればかりではない。 主は、この様な者を「わたしのものとなる。わたしの宝となる。」と仰られるのだ。 その主の憐れみを地に捨てることはできない。 この様な者をさえ、拾い上げ、救い上げて御子イエスの血で洗ってくださった。 アドベント一週目、改めて御子の出現(アドベント)を待ち侘びよう。

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