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■私は葡萄の枝/ヨハネ15:1~10
「わたしはブドウの木、あなた方はその枝である。」ヨハネ15章 といわれるイエスに向かって「こんな枝で宜しいのですか?」という思いと、「駄目なら切ってください。」という思いが執拗に浮かんでくる。 どうもへそ曲がりで、ひねくれた枝だと、自分でも思う。...
新約聖書 / ヨハネ福音書
2017年3月26日
■彼は誰?/マタイ16:13~23
イエスはご自身のことを敢えて「人の子」と幾度も言われた。 それは彼だけの独特な呼び方だった。 それは人々がイエスの為さる不思議なわざを見て、メシヤとかキリストが意味する「救い主」をどう位置付けするかによって最も懸念された点であった。...
新約聖書 / マタイ福音書
2017年3月19日
■信仰は息をする/ヨハネ8:19~27
人がキリストから与えられた信仰は生きている。 生ける神からの贈り物、賜物であるから、信仰は生きている。 しかし、時と共に信仰は死んで行くことが少なくない。 それは人間が再び世の常識と道理の中に埋もれて行く過程に従って、生きて弾んでいた信仰も萎んで行くからだ。...
新約聖書 /ヨハネ福音書
2017年1月8日
■教会は愛の(アガペー)塊/1ヨハネ4:7~21
昔から眺めて来た画、聖なる夜の聖家族。 生まれたばかりのイエスを大切そうに抱くマリヤ、母子を覗き込むように見守るヨセフ。 少女の様なマリヤの横顔、そして大人びたヨセフの目は神秘そのものの嬰児を凝視していた。 色々な画家が描いた画にせよ、三人を取り巻く空気は世の平安というより...
新約聖書/第一ヨハネの手紙
2016年12月25日
■マケドニヤ教会への分け前/Ⅱコリント8:1~15
今から1960年ほど前、キリスト教会は地中海沿岸部西のギリシャと上のトルコ地方に散らばっていた約10数か所程度だった。 しかし、現在の様な教団教派の境やカラーはなく、実に純粋でキリストだけを意識する交わりのあるものだった。...
新約聖書/コリントひとへの手紙第二8:1~15
2016年12月11日




