検索
■ アシュラム / マタイ14:13
「イエスは自分だけで寂しいところに行かれた。」(マタイ14:13) 私達の教会は年に一度であるが、聖書の言葉を聴くためだけの集会を開く。静かな場所で個人個人が聖書の言葉に耳を傾ける。そのためだけの集会である。聴いた後、グループになって分かち合う。しかし、そこではその人の分か...
新約聖書/マタイの福音書
2005年10月9日
■ 夫婦は神のもの / マルコの福音書10:1~12
離婚とは、当初誰もが予想していなかった事態である。だが、今の日本は欧米並みの離婚率である。離婚に至った人達(特に芸能人)は必ず言う。「性格の不一致でした・・」。だが、人間千差万別である。皆、異なる性格の持ち主である。特に男性と女性は更に異なる。 ...
マルコの福音書
2005年10月2日
■ 人生最大の関心事 / マルコの福音書9:33~50
旅の途中、イエスから10メートル前後離れて歩いていた弟子達が盛んに議論していた。彼らは真剣であった。それもその筈、弟子達の中で誰が一番偉いのか?という話題であったからだ。 目的地に着いたとき、イエスは弟子達に問われた。「あなたがたは道すがら、何を論じあっていたのか?」・・・...
マルコの福音書
2005年9月25日
■ リバイバル / ヨハネの福音書4章16~19
今年度のリバイバル集会は、9月17日、18日と二日間に渡って開催された。福岡より竹田牧師をお招きして、神の福音を聞くことができた。魂の救い、そして呪いからの開放というテーマにそって話してくださった。素晴らしい二日間であったことを神さまに感謝、である。...
ヨハネの福音書
2005年9月18日
■ I killed (私が殺した) /マルコの福音書9:30~32
イエスは弟子たちを教えて、『人の子は人々の手に渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて三日の後に、人の子はよみがえる。』と話された。しかし弟子達は、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていたと、マルコの福音書、9章31節は語る。...
マルコの福音書
2005年9月11日
■ 微かな希望は不信仰 / マルコの福音書9:14~29
イエスの前に一人の少年が連れて来られた。群集が取り囲んでいた。少年の父もいた。 少年は幼いころから、悪霊に取りつかれていて、時には彼自身の命さえ危ぶまれるほどの状態を呈した。悪霊は彼をひきつけさせ、彼を地面に打ち倒し、泡を吹かせた。...
マルコの福音書9:14~29
2005年9月4日
■ 彼の言葉を聞きなさい / マルコの福音書9:1~13 (2005-08-28)
イエスはある日、弟子のうち三人だけを伴って高い山に登られた。その時、弟子達の目の前でイエスの姿が変わった。白く輝くみ姿になられた、と聖書は語る。この世のどんな薬をもってしても現せない「白色」であったと語る。「白さ」は何を語るのだろう。それは、罪なき色である。また、神の輝く栄...
chofuminami
2005年8月28日
■ こんな器・・・になりきれない私 / マルコの福音書8:34~38 (2005-08-21)
イエスはある日、弟子達と共にたくさんの人々、つまり群集を前にして語られた。それは「キリストの弟子」としての招きの言葉であった。『誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』(マルコ8:34)。...
chofuminami
2005年8月21日
■ 主の日が来る / マタイの福音書16:13~23 (2005-08-14)
聖書全体が絶えず未来に向かって宣言して来たことは、「主の日がくる」というメッセージである。 「主の日」は二通りの世界の到来を意味する。一つは神の支配が始まることであるが、これはクリスチャンにとってこの上なく、嬉しい日である。もう一つは目を疑うような未曾有の恐怖がやってくる...
chofuminami
2005年8月14日
■ 私の信仰・他者の良心 / コリント第一の手紙10:14~33 (2005-08-07)
クリスチャンになると、自由が束縛される、と言うイメージがどうしてもつきまとう。 「あれは駄目、これも駄目」というふうに思われているし、排他的にも見られている。 だが、聖書はそんなことは言ってもいないし、クリスチャンとて然り、決して束縛もされていない。勿論、ある教派の場合...
chofuminami
2005年8月7日
■ 神の誠実、これをなしたまえり / マルコの福音書8:22~26 (2005-07-31)
イエスと弟子達ががベッサイダという村に来たとき、村人が目の見えない男を連れてきて頼んだ。「主よ、どうかこの男にさわってやってください!」イエスは男を人々から引き離し、彼にふれると、男の目は開き、生まれて初めて見る人間の姿は、「まるで歩く棒のようです」と言った。イエスは村に入...
chofuminami
2005年7月31日
■ 蛇のように悟くあれ / マルコの福音書8:1~21 (2005-07-24)
二度目のパン記事が出てくる。いかに人々がイエスを慕い求めていたかが、伝わってくる。 皆、腹の空くのも忘れてイエスと彼の言葉に渇いていたのだろう。実に彼らにとって腹は二の次であった。現代の教会は食事が先、と言う印象が否めない・・(猛省)...
新約聖書 / マルコの福音書
2005年7月24日
■ 開いていても見えない目 / マルコの福音書7:31~38 (2005-07-17)
ある日、イエスの前に耳が聞こえず、口のきけない人が連れて来られた。彼自身の世界は長い時間、小さな部屋に閉じ込められている状態だった。私達も言葉を語れることの恵みを失ったとしたらどうだろう。自分の心や気持ちを表現できないとしたら。しかし、彼の人生で最も素晴らしい日がやってきた...
chofuminami
2005年7月17日
■ 一生懸命の次 / マタイ15:21~28 (2005-07-10)
一生懸命は尊い。この言葉は多くの人から好感を持たれるし、憧れもある。しかし、こと信仰においては苦しい部分がある。確かに一生懸命は必要だが、これだけだと危険が伴うし、ややもすると道を踏み外すきっかけにもなる。出来れば、一生懸命から力がスッと抜けた位いが良いかも知れない。なにし...
chofuminami
2005年7月10日
■ 主はここにおられる / マルコの福音書7:9~23 (2005-07-03)
昔、旧約の預言者エゼキエルはバビロン帝国がユダヤを踏襲し、人々を捕虜として帝国へ連れ去った時代に起こされた人である。神はエゼキエルに不思議な幻、黙示を見させられた。それは、今は荒涼として朽ち果てたように見えるエルサレム神の都と神殿も、やがて「その時」が来れば以前にも増して、...
chofuminami
2005年7月3日
■ 信仰・唇と心の温度差 / マルコの福音書7:1~8 (2005-06-26)
人間、実に厄介な生き物である。人間である自分がそう思うのだから、創造主は特に強く思われるに違いない。神の忍耐に、ひれ伏すしかない。そんな人間のために愛する我が子を十字架に追い立てたのだから。 「神は絶えずアーメンなるかたである」と、聖書が言うとおり、神は決して御自身を否定...
chofuminami
2005年6月26日
■ 父の日・悩みの日々にも神の前を生きる / 創世記3:22~4:16、4:25~26 (2005-06-19)
今日は「父の日」。と、言っても母の日があるのに、父の日がないのは不公平であるからか、または、デパートなどにとって絶好のチャンスだからか、どことなく実感が来ない。父とはどうも死んでから存在感がわいてくるような立場に置かれてなんとも哀れである。...
chofuminami
2005年6月19日
■ 神を畏れよ / マルコの福音書6:45~56 (2005-06-12)
我々は神を畏れる。畏れるとは、かしこまって敬うという意味の「おそれ」である。それは「恐れ」ではない。しかし、これだけでいいのだろうか、と思う。現在の私たちは神への「恐れ」という概念が希薄過ぎると思った。旧約聖書の時代、人々は本当に神を恐れた。へブル人たちは「神」という名さえ...
マルコの福音書6:45~56
2005年6月12日
■ 「今」を問われる神 / マルコの福音書6:30~44 (2005-06-05)
私達の神は今を問われる。明日の信仰、来年の私達の信仰を神は問題にされない。「今」である。今、何をどう信じているのか、である。だが、私達は今よりも先延ばしを希望する。要するに今、決めたくない。今、結論を出したくない、のである。特に重要な課題はじっくりと考えてから・・・と思う。...
マルコの福音書マルコの福音書6:30~44
2005年6月5日
■ 好い加減が好きですか? / マルコの福音書6:14~29 (2005-05-29)
好い加減? 好い加減と言う言葉は相当極端な意味を含む。仮に風呂の温度なら、丁度良い湯加減であるが、対人関係とか仕事に対する態度であるなら、信用ガタ落ちである。そして、この世はなんとか乗り切れるかも知れないが、神の前においてはそうは行かない。日本の八百万の神々を信奉する風土...
マルコの福音書6:14~29
2005年5月29日




